料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第94回(2019.1.22)

幕末の紅葉屋事件と富田家の発展

幕末、尾張藩を揺るがした青松葉事件とともに栄ミナミの紅葉屋事件があります。尊王攘夷の尾張藩史「金鉄組」一党が夷敵、西洋の羅紗・洋品の商いを拡大している紅葉屋を誅するため襲撃した騒動です。

この事件は、城山三郎氏著『中京の財界史』の巻頭や『冬の派閥』に取り上げられ町の話題となりました。そして、鈴井沢一翁「本町通りものがたり」から下記に引用抜粋して説明を加え、紹介させていただきます。

本町通り岡谷鋼機から入江町筋を渡ると、通りに面して右側に紅葉屋が昨年末までにありました。この店は、幕末、洋反物商として巨財をなした紅葉屋の屋号と経営権を明治9年富田重助(神野友三郎)の逝去にともない、番頭の浅野甚七が承継した店です。

浅野甚七の店と通りを隔てた向い側に大きな「しもた屋」は新田持豪長者の神野(かみの)金之助の自宅(現在の東朋テクノロジー本社周辺)がありました。同氏は名古屋財界の重鎮として明治銀行、福寿生命などの会社を起し、明治四十三年には名古屋鉄道の社長に就任しております。

金之助の長兄友三郎は、嘉永四年(一八五一)十五歳で紅葉屋の富田重助の家に養子入りし、経営の才を発揮しました。三代目を襲名した重助重政は、練油や白粉、紅などを扱う小間物屋であった紅葉屋を西洋の小間物や舶来の毛織物を扱うことによって、大幅に業績を伸ばして名古屋一流の洋物店にしました。洋物は仕入れをすれば、右から左に飛ぶように売れてゆく。重助の時代をみる確かな眼と、商人としての大胆な発想が、ますます紅葉屋を栄えさせました。

白粉「通天香」は紅葉のマーク
白粉「通天香」は紅葉のマーク(左)
横浜で盛んに海外との貿易を行った頃の三代目富田重助重政(前列左横)。当時商人でありながら短刀所持を許され、こうもり傘に高下駄という姿。(右:東朋テクノロジーHPより)

 

横浜が開港されているにもかかわらず、尊皇攘夷の嵐が日本中に吹き荒れており、名古屋の町でも、金鉄組と称する若い藩士たちが攘夷をかかげて過激な運動をしていました。洋物を扱って金儲けをするのはけしからんと、金鉄組は洋物商を目の敵にしていたようです。慶応元年(一八六五)、百五十人の連署をもって、藩主慶勝に対し、紅葉屋重助など十軒の洋物商を廃業にせよとの建白書を出しました。

建白書だけでは埒(らち)が明かないとみるや金鉄組の七人の藩士は実力行使。刀を突きつけ、すぐさま廃業せよと重助を脅した。役者は、重助が一枚も二枚も上手だったようで。如才なく揉み手をしながら番頭に用意させた五百両を差し出す。日に千両の商売をするという紅葉屋にとっては、五百両の損失は、たいした痛手ではない。金鉄組の面々に向かい、在庫の洋物がすべて捌(さば)けるまで廃業を待ってほしいと言う。約定書と五百両を受けとり金鉄組は、紅葉屋を去って行きました。 この話を聞いた人々は、紅葉屋の洋物が蔵からなくならないうちに買おうと店におしかける。在庫の品は、またたく間になくなる。重助は、横浜から品物をこっそりと仕入れ、それをまた売る。廃業どこ吹く風と平然と重助は商売を続けたとのこと。

慶応二年二月八日の夜、金鉄組が、二度目の襲撃を実施、前年の約定を破り、商売を続けているのは、けしからんという理由です。金鉄組は刀を抜き、洋物を切り裂き意気揚々と引きあげたとのお話しです。

紅葉屋襲撃後の二月二十三日、大曽根の十州楼で、事件の黒幕、田中不二麿、丹羽賢たちが酒を飲み、乱暴を働くという事件を起こした。彼らは紅葉屋事件とあわせ、差控え(自宅謹慎)という処分となり、紅葉屋の方は二週間の戸締謹慎を命ぜられました。

慶応三年伊勢神宮のお札が、本町通りの金持の商家の上に舞い降りるという事件が相次いだ。人々は通りを踊り狂って歩いた。「ええじゃないか」の騒動に際して紅葉屋は、絶好のかせぎ場とばかりに踊り子のゆかたの売り込みに成功し、莫大な利益をあげました。

(以上、堀川文化を伝える会 平成18年3月15日発行「名古屋本町通りものがたり」P53~54、及び、ネットワーク2010HP開化期の広小路 第6回「紅葉屋事件」を加筆修正しました。http://network2010.org/article/1111

明治時代に入り紅葉屋事件の首謀者、金鉄組の田中不二麿は新政府に仕え、初代の司法大臣。丹羽賢は五等判事、中村修は初代名古屋市長です。紅葉屋の富田重助、神野金之助の兄弟は、名古屋の産業基盤を創設し活躍されました。紅葉屋に攻め入った側も、守る側も両者とも新しい時代の波にのることができたのは、才覚と器量が彼らに備わっていたからのこととおもわれます。

戦後の紅葉屋さんは靴の問屋で月星化成代理店として昨年末まで同地で営業していましたが、現在は宝不動産のマンション開発予定地として解体が始まりました。3代目の浅野甚七翁は地元町内会、若宮八幡社総代会、名古屋ロータリークラブの要職を務め、15年ほど前まで私に街づくりと歴史文化への指導をいただき感謝しております。ご長男の浅野栄一氏は白川幼稚園、栄小学校と同期で仲良く一緒に遊んでいました。現在は鉄砲町の町内会代表として活躍されています。(住吉の語り部第36回 鉄砲町1-2丁目 参照

文政年間に創業した料理旅館「十州楼」は、大曽根で周りに大きな建物はなく眺望に優れ、恵那山や御嶽山を含む十州「尾張、三河、遠江、信濃、美濃、加賀、越前、近江、伊賀、伊勢」の山々が望めるとしてこの屋号が付けられたとのことです。名古屋では最も古い料亭として頑張っていましたが、十数年ほど前に廃業され、現在は料亭蔦茂が最も歴史を誇る店となりました。

紅葉屋の経営を浅野翁に委譲した4代目富田重助重慶は殖産事業、新田開拓、名古屋電気鉄道、明治銀行、福寿生命の設立、そして、茶道の造詣が深く三井財閥の益田鈍翁との茶会エピソードはいまでも地元財界の話り草です。5代目重助重信は昭和の金融恐慌、戦時下の苦難をのりこえて、現在の東朋テクノロジー㈱として日立製作所の特約店展開で「創意と躍動の歴史」の基礎づくりをされました。明子夫人は瀧定オーナー滝広三郎のご長女です。

6代目富田和夫氏は文化を愛する裏千家今日庵老分の茶人、ホトトギス同人の俳人。中部経済同友会の代表幹事としても活躍され、入会したての近所の小生のお世話していただきました。結構なお酒好きで、ご一緒に蔦茂で名妓連と共に酒宴をともにした楽しい思い出があります。この頃は昼の同友会の例会ではキャッシュバーがあり、一杯嗜みながらフリーディスカッションに参加するのが常でした。道子夫人の兄上は日本トラスシティの小菅弘正氏です。弟の信夫氏は東海銀行本店営業本部長として活躍、その後、中京銀行に転じ平成4年より6年の間、頭取をお勤めになりました。

7代目英之氏は三菱商事を経て、平成13年社長就任後、米国・アジアへの幅広い事業展開でグローバル企業に躍進、中部経済同友会でも父上に続いて昨年まで代表幹事として素晴らしいリーダーシップで活性化に尽力されました。また公職も多く、地元の栄ミナミ地域活性化協議会の副会長職もお願いしています。奥様の三良子さんは石塚ガラス・石塚芳三様のご長女です。

解体工事の紅葉屋(手前)奥の茶色のビルは笹屋(岡谷鋼機本社) 2019.1.19撮影
解体工事の紅葉屋(手前)、奥の茶色のビルは笹屋(岡谷鋼機本社)
2019.1.19撮影

知多の古見から鉄砲町に店を構えた初代、富田重助鹿助(じゅうすけしかすけ)の化粧品「通天香」のマークが紅葉であったことから富田家を「紅葉屋」さんと呼ばれ地域では愛着をもたれています。同じく、北の岡谷鋼機「笹屋」さん、南の貴金属・池田商店「蝶屋」さんとともに、栄ミナミの名家が長く続き発展するのを誇りに感じています。 (神野金之助翁については住吉の語り部第90回 南久屋町を参照ください)

東朋テクノロジー本社ビル
東朋テクノロジー本社ビル、本町通りを挟んで茶色ガラス窓の
ビルは蝶屋(池田商店) マンション工事がオカメ桜並木の三蔵
通り西に進捗中 2019.1.19撮影