「古地図を手に愛知県名古屋市の歴史を語る」~ライオンズクラブの卓話ご依頼下さい~
北見昌朗

ライオンズクラブで卓話の講師をさせていただいています。

ライオンズクラブで話す時のテーマは、最近は古地図を手にした歴史モノが多いです。名古屋の旧町名復活を目指して、名古屋の歴史、旧町名の面白さを語ります。

ライオンズクラブの皆様は、名古屋の歴史に興味を持たれている方が多いはず。是非北見昌朗に卓話をご依頼下さい。

★瑞穂ライオンズクラブで卓話を務めさせて頂きました。

名古屋瑞穂ライオンズクラブ会報もあわせてご覧ください。(クリックでpdfファイルが開きます)


★名古屋栄ライオンズクラブで卓話を務めさせて頂きました。

北見昌朗

スピーチ(株式会社北見式賃金研究所・社会保険労務士法人北見事務所 北見昌朗様)

名古屋の歴史につても調べてみると、本当に面白いです。ところが名古屋の人は知らない人が多く、もったいないことをしていると思います。自分の地元を知らないと損だということで、話していきたいと思います。

テーマ:「旧町名」で語る明治名古屋商人の活躍

皆さんにお渡したレジュメ・地図がありますが、横に長い地図は明治のもので、縦のものが江戸時代のものになります。

レジュメの7頁目に門があります。凱旋門でございます。日露戦争凱旋門がどこにあったかご存知でしょうか。広小路があり、本町があり、広小路本町の交差点の名古屋駅側つまり西側に広小路をまたぐようにして建てられたのが日露戦争凱旋門です。陸軍第三師団、旅順攻撃で多大な犠牲を払いましたが、その明治39年1月に凱旋する。どんな場所から来たかというと、笹島です。そこが当時の名古屋駅ですから、ここにシナチュウという大きな旅館があるんですが、ここに降りまして、当時の写真がいっぱい残っているんですが、どこに行ったかというと東別院、ここが祝賀会の会場でしたので、ここに行ったという写真が残っています。

もう一つ、面白いと思うのが、日清戦争です。戦没者記念碑がどこにあったかというと、中区役所です。中区役所が名古屋市役所です。その向かいにあったのが、愛知県庁です。今で言うと交差点にビルでいうと7階建てくらいの高さです。目の前にあったのが愛知県議事堂だったので、ちんちん電車が通るたびに議事をするのにうるさいため、日泰寺に移されて、今は日泰寺にあります。

この地図は明治42年です。明治43年にキョウシンカイという博覧会が鶴舞であり、名古屋が一変していく時なので、面白い地図です。営業案内地図ですので、当時店を出した店の名前が載っている。多いのは旅館、お医者さんです。

ジュウイチヤ呉服店がどこにあったかというと御幸ビルです。清須越しといい、家康の命令で清須から名古屋に移転させられたもので、清須越し以来の商家がいくつかあり、そのうちの一つがジュウイチヤ呉服店、小出さんという小間物屋だったのですが、そこの店があったのが御幸ビルの少し北側です。

江戸時代はメインが本町でした。ここにお城がありました。茶屋町、アイリス愛知、そこにあったのが伊藤次郎左衛門家・いとう呉服店です。

南に下ると十六銀行名古屋支店の西側にあったのが大丸呉服店です。これは大阪から出てきたものと思いますが、地元で言いますとジュウイチヤ呉服店で、これがその後丸栄になっています。

伊藤さんの方は明治43年に茶屋町を出て、栄町に出てきます。場所は丸栄スカイルの所です。木造3階建てで、当時はすごい建物で、名古屋で初の百貨店です。

人の流れは徐々に本町から下に下がってきて、広小路本町の交差点がメインになっていきます。そして栄町の方に流れていきます。

そのような流れで、例えばオリエンタル中村は今のUFJ銀行の所にありました。中村呉服店です。戦後東海銀行に売却し、今の三越の場所に移っていった、というのがオリエンタル中村の歴史です。

また、宮町に服部商店があります。ここでの大正4年のストーリーをご紹介します。

ある日、皆が忙しく立ち働いている店先へ、古ぼけた小さな袋を手首にかけ、もそっとした格好のおじさんが入ってきた。ものも言わず、誰にも挨拶せず、黙って私らが座っている前の椅子に腰を下ろした。店の出入りや町から流れ込んでくる喧騒を知らずげに椅子に寄りかかったまま、タバコをふかして何事かをじっと考え込んでいる。年齢の程は50歳前後で、職業の程は無論つかみどころがない。なんにしても一種異様な人物である。そこへ外から入ってきたのか、奥から出てきたのかしばらくたって服部兼三郎社長がやぁと一声かけた。その人はちょっとしたお辞儀も返さない。よう今日もまた金ですかい。このようなやり取りがあってその日は25万円借りていったという。退三はその大金に度肝を抜かれたという。これが退三と豊田佐吉との出会いであった。退三とは豊田を昭和24年に経営危機を乗り切った石田退三さんです。服部兼三郎はその後事業に失敗して自殺する。その再建に取り組んだのが支配人であった三和常次郎で、それが興和になる。このストーリーがどこかというと宮町です。

明治の名古屋人で突出しているのは、佐吉候です。場所はあさひ町です。ここで27歳で創業したのが佐吉候です。彼は慶応3年生まれで、同い年には正岡子規、1歳年下が秋山真之です。明治27年創業し、織機の開発をしていました。織機は今でいう自動車に匹敵する産業です。日本の繊維産業が発展する大きな条件であったのが織機の開発でした。日本の戦前の発展のキーマンが佐吉候でした。佐吉候によって開発された織機が非常に評価が高く、三井物産などの目に留まることになりました。大隈重信なども視察に訪れていました。そこから天下の大豊田が始まっていきます。

服部兼三郎と盟友だったのが佐吉侯で、二人でよく飲んだのが料亭花月です。花月は冨沢町で、本町通の一つ東側の通り、つまり住吉の広小路通りの北側です。冨沢町四丁目というのは今では駐車場になっていますが、そこが料亭花月です。そこでよく飲んでいたことが豊田ヒストリーの始まりなのです。

レジュメ37頁ですけど、色々なところから支援を受けて会社を作ります。井桁商会、これは三井物産です。井桁は三井家の家紋です。場所はミッドランドスクエアです。技師として招かれましたが、うまく行かずに解任されて、もう一度会社を作るので来てくださいと言われたのが、豊田式織機です。場所はルーセントタワーから東へ100メートル行った駐車場です。そこでまた解任されますが、その豊田式織機が今でいう豊和工業です。その子会社に中日運送というのがあり、そこが持っている土地が豊田式織機の場所です。

38頁は、これがその当時の豊田喜一郎少年です。

解任された佐吉侯がアメリカに行きます。外遊です。明治42年くらいでしょうか。そこで見たのが車でした。これからは車だと。車というのは、織機に似ていると思ったそうです。佐吉侯が苦労したのが歯車で、車もエンジンが付いた歯車だと思ったそうです。息子の喜一郎に、私は織機で国に奉公したら、お前は車を作れということを言ったそうです。

外遊から戻って、今度は自力経営に乗り出す。それが産業技術記念館、ノリタケがあるところです。佐吉侯は明治45年、叙勲で、勲章をもらいます。ところがお金がないのです。勲章よりも目先の金のことの方が問題だったのです。この当時明倫中学校に通っていた喜一郎。明倫中学校は今の明和高校ですが、明倫中学校の授業料を何度も滞納していました。当時、明倫中学校は建中寺の横、今ですと県立愛知商業高校の場所にありました。喜一郎は武平町で育ち、明倫中学校に通い、工場ができますと、西区の栄生の工場、自宅でもあったのですが、ここで生活します。ここで親子の挑戦が始まるのです。

明治と言うのは、戦前はすさまじい時代でした。恐慌があるからです。恐慌があって、銀行の取り付け騒ぎがあり、お金の信用がなく、政府が救済することもない。そういう中で生き抜いてきたので、我々のご先祖がいかに苦労したかということです。

例えば、栄に東急インがあります。あそこにあったのは明治銀行です。昭和7年金融恐慌で破綻しました。名古屋銀行、今の名古屋銀行とは違い、東海銀行と言うのは、名古屋銀行と愛知銀行と伊藤銀行との合併です。伊藤銀行は伊藤家です。名古屋銀行と言うのは滝家。タキヒョウ、瀧定が作った銀行で、傳馬町にありました。愛知銀行と言うのは今のマンピョウ。そこにありました。名古屋銀行の取り付け騒ぎがあったのが明治40年1月です。明治37年、38年これは日露戦争です。勝てると思っていた日本人がほとんどいなかったので、開戦と共に株が大暴落しましたが、明治39年は株価が急激に上がります。満鉄の株式公開です。ところが、明治40年1月になると大暴落します。明治40年6月名古屋銀行が経営破綻寸前。その時に全財産を処分したのが滝家です。私財をなげうって、銀行を救った。そして、東海銀行となるわけです。

歴史と言うのは繰り返すものです。これから先は私の空想ですが。今年の年末か来年早々にとんでもない歴史的な出来事が起きる。中国初のダイトウランダン。私は今そう思っています。この話は長いです。私の歴史論です。

これからも大変な時代は来ると思いますが、我らのご先祖はそれでへこたれて死んでいったわけではないのです。どんなときも乗り越えて行ったわけですから、このあたりでご先祖に感謝すると同時にどのようにしてピンチを乗り切ったのか。残ったところがどういったところで、消えて行ったところがどういったところだったのかということを歴史の中から学べばいいんじゃないかと思うのです。

御清聴ありがとうございます。(名古屋栄ライオンズクラブ会報より)


ライオンズクラブといいましても愛知県や名古屋市に沢山あります。北見昌朗は、次のようなライオンズクラブからお招き頂ければ光栄だと思っています。

  • 名古屋サウスライオンズクラブ
  • 名古屋シニアライオンズクラブ
  • 名古屋ブルースカイライオンズクラブ
  • 名古屋ホストライオンズクラブ
  • 名古屋みなとライオンズクラブ

ライオンズクラブは名古屋市内でも多数ありますね。会員様も多いと聞いています。ご依頼があれば、時間の許す限り、次のようなライオンズクラブでも卓話をさせて頂きます。よろしくお願い致します。

  • 名古屋葵ライオンズクラブ
  • 名古屋栄ライオンズクラブ
  • 名古屋樟ライオンズクラブ
  • 名古屋城北ライオンズクラブ
  • 名古屋瑞穂ライオンズクラブ
  • 名古屋太閤ライオンズクラブ

北見昌朗は講師料をもらっても、すぐその場で寄付していますので、お返ししますので、予算はお気にされないで下さい。

  • 名古屋中ライオンズクラブ
  • 名古屋中川ライオンズクラブ

名古屋の歴史大発見! 旧町名復活を目指して

■■江戸時代の名古屋の生い立ちについて■■

家康公が清洲越しをしましたが、清洲城があるところが海抜5メートル。名古屋城があるところは15メートル以上あります。名古屋城の場所に立てば全部見渡せるポイント。つまり、5メートルから15メートルへ高台移転したのが清洲越しです。

駿河湾沖の東海大地震というのは160年前、嘉永7年です。その津波というのは、堀川まで襲来しました。尾頭橋まで達して、以西を冠水した。つまり、伊勢湾台風の冠水エリアと全く同じです。そういうようなことがあって、それで名古屋城の北側の名城公園、これは巨大な沼でした。そうすると最北から攻め入るときに、堀川があるため攻められない。
名古屋は非常に攻めにくい城塞都市だったのです。

古地図を見ると笹島に「支那忠」とありますが、これは乃木大将が泊まった旅館です。明治19年に名古屋駅ができ、あたりは葦がしげる沼地でした。地盤の悪い場所です。東の方を見てみるとチンチン電車が走っていたのがわかります。

蒲焼町は今の「錦通」のことです。一説によると、名古屋城、築城の際に、職人さんたちが、蒲焼を食べる店が一杯並んでいたといわれています。

世の中、伝馬という場所が多いですが、ここは飛脚の場所です。江戸時代はこの伝馬町と本町がクロスするところ、ここに「札の辻」という立て札があります。伝馬町を本町からちょっといきますと名古屋銀行(東海銀行の前身の1つ)があります。場所は、現在の八木兵本店です。これをつくったのはタキヒョーの滝さんです。

その下に明治銀行がありますが、この銀行を作ったのは奥田正香さんです。この奥田正香さんは20年以上、商工会議所の会頭をやったドン中のドンです。既存の勢力に対抗する意味で作ったのが明治銀行。現在は、八木兵さんの伝馬町支店になっています。

そこからずっと西を見ていきますと三井銀行があります。さらに、第一銀行があり、関戸銀行があります。この伝馬町は、明治名古屋のウォール・ストリートでした。

■■豊田佐吉翁にまつわる明治時代の名古屋の話■■

現在のテレビ塔の西側に、たての街がありますが、そのもう1ブロック向こう側が朝日町です。ここは、豊田佐吉翁の創業の地です。佐吉翁は慶応3年生まれ。湖西市で貧しい農家に生まれ、お母さんが機織をやっていました。その、機織を自動化するということで、織機の開発が始まるのです。湖西で過ごし、半田の乙川というところに行き、そこで織機の開発にめどをつけます。これで俺もいよいよ創業するんだ、といってスタートを切ったのが、この朝日町です。翌年に移転したのが現在のテレビ塔の南側、宝町。

次に引っ越したのは、現在も残っている武平町です。桜通にあるトヨタホームの東側にマンションがあります。そこが武平町工場の跡地です。そこは300坪の敷地がある本格的な工場でしたので、そこから世界にめがけて織機の輸出が始まりました。非常に一躍脚光を浴びたものですから、大隈重信など、全国の著名人がどんどん視察に訪れた場所です。

佐吉翁というのは、商売人ではありませんので特許権、知的財産権などというような発想はあまりない。実際には開発にお金を使いすぎまして、豊田式織機で解任になってしまいました。そこでアメリカに行って見たのが、自動織機だったのです。今度は、大手の力を借りずに、自分で借金してやるんだということでやったのが、栄生のノリタケの場所だったのです。これができたのは大正元年ですからすでに彼は45歳。当時の45歳というのは、感覚としては今の55歳よりもっと上です。60歳近くの人が、人生再チャレンジの場所だったのです。清水口のところにダイキン工業がありますがそこが豊田佐吉翁の邸宅跡地です。

道をまたいで、豊田利三郎さんという名前があります。この方は、娘婿です。佐吉翁は発明ばかりやりますので、実際に豊田という会社の実質的な切り盛りをしたのはこの利三郎さんです。その南側にあるのがソニーの盛田さんのご自宅。そのまた横になるのが、豊田喜一郎さんです。

喜一郎さんを生んだのは、たみという人なのですが、佐吉翁がどんどんと借金をするものですから、愛想を尽かして出ていったのです。当時、少年だった喜一郎は湖西にいたのですが、佐吉翁が再婚し、呼び寄せて一緒に暮らすようになったのが武平町の自宅兼工場です。

佐吉翁は特別な人望、人徳を持っている人で、彼を応援しようとする人がどんどんやってきました。そのうちのひとりが服部兼三郎さんという人です。この人は繊維の業界で、一代でのし上がっていった人です。彼は祖父江重兵衛商店(糸重)の丁稚として働き、娘までもらいながら、次期後継者の期待を受けるという大変なやり手な人でしたが、飲む打つ買うの、やり手だっために、追放されてしまい創業したのは八百屋町です。ところがそこが丸焼けになって、移転したのが宮町。そこで服部商店として、大陸に糸を売りまくって大成功を収めるわけです。

その服部商店で丁稚小僧だったのが、後のトヨタ再建の男・石田退三さんです。石田退三語録の中ででてきますが、ある日、みすぼらしい格好をしたオッサンが、ぬおっと入ってきた。挨拶もせずにただ立っている。それを見つけた主人が、「さあさあ、どうぞ」と通した。主人は「今日はいかほど?」と聞いたら、「今日はちいと高くてすまんが25万円ばかし貸してくれ」といったそうです。当時の25万円というのは、現在では1億を超える。それを、借用証書も書かずに、ありがとうとも言わずに出ていったそうです。これを見て肝をつぶした退三さんは、「あの人、どういう人ですか?」と聞いたら、「お前、よく覚えておけよと、あの人は豊田佐吉さんといってな・・・」といったエピソードがあるのが、ここの場所です。

ところが第一次世界大戦があって糸が暴落してしまった。兼三郎さんは自殺に追い込まれてしまったのです。その葬儀委員長は佐吉翁です。その再建に取り組んだのが三輪常次郎。それが興和さんです。

名古屋には見れば見るほど変わった町名があります。町名は文化、歴史だと思います。だからなんとか町名復活運動をどうやって進めたらいいのか協力を仰ぎたいと思っています。

北見昌朗


ライオンズクラブは、名古屋市外の愛知県下にも沢山あるようです。三河や尾張にも次のように多数のライオンズクラブがあるようです。

  • さくらライオンズクラブ
  • ライオンズクラブ一宮
  • 阿久比ライオンズクラブ
  • 愛知グレースライオンズクラブ
  • 安城ライオンズクラブ

ライオンズクラブの卓話において、名古屋の歴史の話をしながら、旧町名の復活の意義をお話ししています。町名復活の話は、実際には名古屋のほかの地域でも同様の問題が起きています。

  • 安城中央ライオンズクラブ
  • 稲沢緑ライオンズクラブ
  • 岩倉ライオンズクラブ

北見昌朗は足を伸ばして、次のようなライオンズクラブも訪問させて頂ければと思っています。

  • 犬山ライオンズクラブ
  • 蟹江ライオンズクラブ
  • 刈谷ライオンズクラブ
  • 幸田ライオンズクラブ
  • 江南ライオンズクラブ

ライオンズクラブは社会奉仕の団体です。存在意義の高い組織です。お招き頂くだけで、光栄です。

  • 小牧中央ライオンズクラブ
  • 瀬戸ライオンズクラブ
  • 大府ライオンズクラブ
  • 知立ライオンズクラブ
  • 津島ライオンズクラブ
  • 東海ライオンズクラブ

ライオンズクラブは社会に貢献する紳士の集まりです。下記のライオンズクラブも対象にさせて頂きます。

  • 尾西ライオンズクラブ
  • 尾張旭ライオンズクラブ
  • 春日井中央ライオンズクラブ
  • 小牧ライオンズクラブ