零戦を産んだ名古屋 昭和激動編

 

『永遠の0』に感動して制作しました。名古屋 激動の昭和を北見昌朗が語ります。

年表をクリックするとPDFで拡大版をご覧いただけます。
PDFファイルはA3サイズ横向きの用紙設定にすると、6枚に分割されて印刷されます。

ポスターは講演会の主催者にプレゼント
北見昌朗が制作したB1サイズの特大ポスター「零戦を産んだ名古屋 昭和激動編」は制作部数がわずかしかないため、一般の方へのプレゼントを中止させていただきました。
ただし、講演会で北見昌朗を講師として招くことを検討中の方にはプレゼントさせていただきます。愛知・岐阜・三重での開催で、経営者向けの講演会です。

お申し込みはこちらからメールでお願いします。
このポスターを見ながら本を読むと、理解度が100倍になります。『永遠の0』を盛り上げましょう。

永遠のゼロ 年表

『永遠の0』の主人公・宮部久蔵の生涯と、彼の給与をまとめてみました

宮部久蔵は大正8年生まれ。家は徳川幕府の御家人だった。
久蔵の祖父は彰義隊に加わり、上野で官軍と戦った。
久蔵の父は相場に手を出して失敗して首を吊った。後に残された家族は大変で、母も病死。久蔵は経済的理由で中学校を中退。カネもなく、身よりもなく、昭和9年に海軍に16歳で入隊。

海軍の下士官は当時、口減らしで入った人が多かった。
久蔵は最初は海兵団に入り兵器員となり、次に操縦訓練生になってパイロットになった。

「操練」は一般の水兵から航空兵を募ったものだった。飛行訓練を経て最初に配属されたのは横須賀航空隊だった。

宮部久蔵は、昭和17年24歳(海軍入隊9年目)の時に「一飛曹」で、俸給75円だった。昭和18年の時は少尉(特務士官)で80円だった。大学出はすぐ少尉(70円)になれた。
なお、煙草「朝日」は昭和20年3月から倍になり、90銭になった。二等兵乙(6円)は、煙草7箱分しか買えなかった。
新聞代(月極)は、昭和19年10月に値上げして1円50銭になったが、昭和20年2月に1円60銭、7月に2円70銭になった。

無能と批判された南雲中将は483円で、二等兵の80倍もらっていた。大卒初任給は150円が相場だった。

「日本軍の給与」については、こちらもあわせてご覧ください。

北見昌朗「歴史に学ぶ経営」をテーマに、講演をご依頼ください。

以下は顧客に配布した依頼状です。

年表『零戦を産んだ名古屋』の寄贈

 拝啓 貴台ますますご清栄の趣、慶賀に存じ上げます。日頃はご支援ご鞭撻のほど深謝申し上げます。
 さて、北見昌朗は最近1つかぶれたことがございます。例の『永遠の0』です。本は10回以上読みました。映画は3回です。初めて映画を観た時は、身体が凍り付き、汗が流れました。強烈な映像でした。
 戦争の話は、亡き父から聞いていましたが、以前の私は戦争の話が嫌いでまともに訊こうとしませんでした。もっと訊いておけば良かったと思いました。これがきっかけになり、私は昭和史をもっと勉強する気になりました。疑問点はいくつもありました。
 Q 日本はなぜ戦争をしたのか?
 Q 日本は戦争をしたくなかったのに、謀略でやらされたのではないのか?
 等々、怒りが込み上がってきます。中でも最大の疑問は「軍部の上層部はなぜ無能だったのか?」という点です。彼らは秀才だったはずです。昭和の指導者は明治20年代生まれが多くて、日露戦争の時に少年で提灯行列をやった世代です。その『日露戦争の勝利』が、『昭和の敗戦』の遠因になっている気がします。
 私が危惧するのは、いずれ朝日新聞のような報道機関が『永遠の0』を批判するのではないかという点です。それを知った中国や韓国が日本批判を始めるのではないかという危惧です。靖国問題と同じように…。
 我々日本人は、この異国からの批判に抗するために、自国の歴史観を深める必要があると思います。そこで『永遠の0』を応援する意味も込めて、年表を作りました。
 この年表は限定部数で、わずかしかございませんが、お客様だけに特別に差し上げますので、是非ご友人にお配り下さい。もっと必要なお方は必要部数をご連絡下さいませ。また、ラミネート加工版も用意しています。飾って下さる場合は、差し上げます。遠慮無くお申し出下さい。
 よろしくお願い致します。

平成26年3月
北見昌朗 拝