『ロータリーの友』2013年11月号に掲載されました。

北見昌朗
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ロータリーの活動を紹介する機関誌『ロータリーの友』(2013年11月号)「わがまち・・・そしてロータリー」のコーナーで、当会の活動が紹介されました。
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「古地図を手に愛知県名古屋市の歴史を語る」
~ロータリークラブの卓話ご依頼下さい~

ロータリークラブで卓話の講師をさせていただいています。最近お招きいただいたのは名古屋ロータリークラブ、名古屋中ロータリークラブ、名古屋北ロータリークラブ、名古屋和合ロータリークラブなどです。
ロータリークラブで話す時のテーマは、最近は古地図を手にした歴史モノが多いです。名古屋の旧町名復活を目指して、名古屋の歴史、旧町名の面白さを語ります。
ロータリークラブの皆様は、名古屋の歴史に興味を持たれている方が多いはず。是非北見昌朗に卓話をご依頼下さい。


★名古屋東ロータリークラブで卓話の講師を務めさせて頂きました。ありがとうございました。

[講演]“古地図を手に語る 明治名古屋商人の活躍”

北見昌朗
(株)北見式賃金研究所 所長 北見昌朗氏
(紹介者 田島保紀 君)

 明治の名古屋で活躍した経営者で、傑出した存在、別格なのは豊田佐吉公です。彼の創業の場所は朝日町一丁目、今の錦三です。テレビ塔の西に、コルゲンコーワなどの興和さんがありますが、そこです。
 佐吉公は明治27年に創業しました。彼は慶応3年生まれなので、明治の元号が年齢になります。つまり27歳でした。
 翌年には、今のテレビ塔のブロックの南側になる宝町に引っ越しました。翌々年には武平町に300坪の本格的な工場を作って移転しました。現在、桜通のトヨタのビルの東側にあるマンションの辺りが、武平町工場跡地です。
 ところが、その後、佐吉公は経営側と路線対立し、明治40年ごろ解任されます。彼はアメリカへ渡り、帰国後、自力で経営をするため、大正元年、栄生に3000坪の工場を作りました。既に彼は45歳でしたが、借金して大きな工場をつくって挑戦をするのです。
 松坂屋の伊藤家は元々、茶屋町にありました。今は愛知県産業貿易会館の南にアイリス愛知がありますが、そこが伊藤呉服店でした。明治42年、共進会という博覧会の開催に合わせて、名古屋で初のデパートをつくりました。場所は丸栄スカイルのところでした。
 今も残っている経営者には共通点があります。それは、「挑戦」です。これからの時代を見通して、猛烈な挑戦をして会社を築きました。(名古屋東ロータリークラブ・ホームページより

名古屋東ロータリークラブで卓話(平成24年5月28日) 「明治名古屋商人の活躍」


★刈谷ロータリークラブで卓話の講師を務めさせて頂きました。有り難うございました。

刈谷ロータリークラブで

平成24年4月2日 刈谷ロータリークラブで。
「古地図を手に語る明治の名古屋商人」

刈谷ロータリークラブ_1 刈谷ロータリークラブ_2
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★名古屋中ロータリークラブで卓話の講師を務めさせて頂きました。有り難うございました。

古地図を手に城下町を歩く

皆さん、こんにちは。本日は私が名古屋の古地図をもとに作成した地図を見ながら、その見方や楽しみ方などをお話して歴史のおもしろさをお伝えしたいと思います。

この地図は、宝暦12年(1762年)江戸中期の名古屋に現在の施設名などを重ねて記しています。この地図をじっくり見ていると、名古屋は城塞都市だなとしみじみ思います。名古屋城の北、現在の名城公園あたりは沼になっていて攻撃を受けにくい。お城がしっかり守られていたことがわかります。また、名古屋城の南側に東別院、西別院など大きなお寺が見られます。今の東区にある建中寺もお堀に囲まれたお寺です。これらは尾張藩2代目の徳川光友公が建てたものでした。しかし、光友公が寺社をつくりすぎたことで、財政的に苦しくなっていきます。地図に現れている時代だけでなく、その先が見えてくるのも古地図のおもしろさです。

名古屋城周りを見てみると、お堀の内の上級武士が暮らしていたエリア、現在愛知県警がある場所に二人の名前が並んでいます。一人は犬山城主の成瀬、もう一人はその家老であった竹越。この二つの家は、幕末の頃は尊皇側(成瀬)と佐幕側(竹越)に分かれ、ずいぶん仲が悪い関係であったようです。中級武士はどのあたりに住んでいたかというと、現在の白壁近辺。そこより南側、現在の広小路の南側が下級武士が暮らしていたエリアです。下級武士の家と言っても、今の御園座の建物が建っている敷地を4軒で分け合うくらい広いもので、随分セレブな暮らしぶりだったんだなと思います。

まだまだ歴史の流れが見えてくる事実が隠されていますよ。本町を南に下ると、現在ホテルのアイリス愛知があるところにいとう呉服店、今の松坂屋がありました。さらに南に下って、東西のメインストリート伝馬町通と本町との交差点に札の辻があり、そこで商売をしていたのが大丸呉服店でした。大丸はこの時代に名古屋に進出し、明治時代に撤退した歴史があるのです。お殿様の参勤交代が通る本町にお店があるのは、最高の立地環境だったんですね。現在、私はこの地図の明治版を作成し、間もなく完成する予定です。江戸から明治への時の流れがわかり、例えば愛知県産業貿易会館は憲兵隊本部になっています。そして、名古屋の中心が広小路と本町が交差するあたりに移っていきます。

ここで地名に少し注目したいと思います。鷹匠町という地名がありました。今のウェスティンナゴヤキャッスルあたり。お殿様の鷹狩りのお伴は城内に住んでいたのです。蒲焼町とは錦通りあたり。蒲焼きを焼く人が住んでいたエリアです。朝日町は錦三丁目、現在名古屋テレビ塔の西側です。明治28年に湖西から名古屋に移ってきた豊田佐吉氏が創業したのがこの地です。

私がなぜ古地図にこだわり続けるかというと、ひとえに楽しく面白いから。しかし、それを眺めながら、実につまらないことをしたなと思うのは町名変更です。例えば、錦三丁目6番地と言われてどこか分かりますか?正解は、先程の佐吉が創業した地なのですが、「佐吉が創業したのは朝日町であった」と説明された方がイメージが広がります。若い人は名古屋の歴史をほとんど知らないというのが現状ですが、その大きな理由は町名を廃止したことなのではないかと思います。町名を調べることはその地の歴史を知ることにつながります。また、私たちのアイデンティティを知り、さらには先人たちの苦労を知ることもできると考えています。

これから大変な時代を迎えようとしていますが、私は歴史研究を続け、楽しみながら歴史から様々なことを学びたいと思っています。本日はご静聴ありがとうございました。(名古屋中ロータリークラブ「Weekly Report」より


名古屋の歴史大発見! 旧町名復活を目指して

■■江戸時代の名古屋の生い立ちについて■■

家康公が清洲越しをしましたが、清洲城があるところが海抜5メートル。名古屋城があるところは15メートル以上あります。名古屋城の場所に立てば全部見渡せるポイント。つまり、5メートルから15メートルへ高台移転したのが清洲越しです。

駿河湾沖の東海大地震というのは160年前、嘉永7年です。その津波というのは、堀川まで襲来しました。尾頭橋まで達して、以西を冠水した。つまり、伊勢湾台風の冠水エリアと全く同じです。そういうようなことがあって、それで名古屋城の北側の名城公園、これは巨大な沼でした。そうすると最北から攻め入るときに、堀川があるため攻められない。
名古屋は非常に攻めにくい城塞都市だったのです。

古地図を見ると笹島に「支那忠」とありますが、これは乃木大将が泊まった旅館です。明治19年に名古屋駅ができ、あたりは葦がしげる沼地でした。地盤の悪い場所です。東の方を見てみるとチンチン電車が走っていたのがわかります。

蒲焼町は今の「錦通」のことです。一説によると、名古屋城、築城の際に、職人さんたちが、蒲焼を食べる店が一杯並んでいたといわれています。

世の中、伝馬という場所が多いですが、ここは飛脚の場所です。江戸時代はこの伝馬町と本町がクロスするところ、ここに「札の辻」という立て札があります。伝馬町を本町からちょっといきますと名古屋銀行(東海銀行の前身の1つ)があります。場所は、現在の八木兵本店です。これをつくったのはタキヒョーの滝さんです。

その下に明治銀行がありますが、この銀行を作ったのは奥田正香さんです。この奥田正香さんは20年以上、商工会議所の会頭をやったドン中のドンです。既存の勢力に対抗する意味で作ったのが明治銀行。現在は、八木兵さんの伝馬町支店になっています。

そこからずっと西を見ていきますと三井銀行があります。さらに、第一銀行があり、関戸銀行があります。この伝馬町は、明治名古屋のウォール・ストリートでした。

■■豊田佐吉翁にまつわる明治時代の名古屋の話■■

現在のテレビ塔の西側に、たての街がありますが、そのもう1ブロック向こう側が朝日町です。ここは、豊田佐吉翁の創業の地です。佐吉翁は慶応3年生まれ。湖西市で貧しい農家に生まれ、お母さんが機織をやっていました。その、機織を自動化するということで、織機の開発が始まるのです。湖西で過ごし、半田の乙川というところに行き、そこで織機の開発にめどをつけます。これで俺もいよいよ創業するんだ、といってスタートを切ったのが、この朝日町です。翌年に移転したのが現在のテレビ塔の南側、宝町。

次に引っ越したのは、現在も残っている武平町です。桜通にあるトヨタホームの東側にマンションがあります。そこが武平町工場の跡地です。そこは300坪の敷地がある本格的な工場でしたので、そこから世界にめがけて織機の輸出が始まりました。非常に一躍脚光を浴びたものですから、大隈重信など、全国の著名人がどんどん視察に訪れた場所です。

佐吉翁というのは、商売人ではありませんので特許権、知的財産権などというような発想はあまりない。実際には開発にお金を使いすぎまして、豊田式織機で解任になってしまいました。そこでアメリカに行って見たのが、自動織機だったのです。今度は、大手の力を借りずに、自分で借金してやるんだということでやったのが、栄生のノリタケの場所だったのです。これができたのは大正元年ですからすでに彼は45歳。当時の45歳というのは、感覚としては今の55歳よりもっと上です。60歳近くの人が、人生再チャレンジの場所だったのです。清水口のところにダイキン工業がありますがそこが豊田佐吉翁の邸宅跡地です。

道をまたいで、豊田利三郎さんという名前があります。この方は、娘婿です。佐吉翁は発明ばかりやりますので、実際に豊田という会社の実質的な切り盛りをしたのはこの利三郎さんです。その南側にあるのがソニーの盛田さんのご自宅。そのまた横になるのが、豊田喜一郎さんです。

喜一郎さんを生んだのは、たみという人なのですが、佐吉翁がどんどんと借金をするものですから、愛想を尽かして出ていったのです。当時、少年だった喜一郎は湖西にいたのですが、佐吉翁が再婚し、呼び寄せて一緒に暮らすようになったのが武平町の自宅兼工場です。

佐吉翁は特別な人望、人徳を持っている人で、彼を応援しようとする人がどんどんやってきました。そのうちのひとりが服部兼三郎さんという人です。この人は繊維の業界で、一代でのし上がっていった人です。彼は祖父江重兵衛商店(糸重)の丁稚として働き、娘までもらいながら、次期後継者の期待を受けるという大変なやり手な人でしたが、飲む打つ買うの、やり手だっために、追放されてしまい創業したのは八百屋町です。ところがそこが丸焼けになって、移転したのが宮町。そこで服部商店として、大陸に糸を売りまくって大成功を収めるわけです。

その服部商店で丁稚小僧だったのが、後のトヨタ再建の男・石田退三さんです。石田退三語録の中ででてきますが、ある日、みすぼらしい格好をしたオッサンが、ぬおっと入ってきた。挨拶もせずにただ立っている。それを見つけた主人が、「さあさあ、どうぞ」と通した。主人は「今日はいかほど?」と聞いたら、「今日はちいと高くてすまんが25万円ばかし貸してくれ」といったそうです。当時の25万円というのは、現在では1億を超える。それを、借用証書も書かずに、ありがとうとも言わずに出ていったそうです。これを見て肝をつぶした退三さんは、「あの人、どういう人ですか?」と聞いたら、「お前、よく覚えておけよと、あの人は豊田佐吉さんといってな・・・」といったエピソードがあるのが、ここの場所です。

ところが第一次世界大戦があって糸が暴落してしまった。兼三郎さんは自殺に追い込まれてしまったのです。その葬儀委員長は佐吉翁です。その再建に取り組んだのが三輪常次郎。それが興和さんです。

名古屋には見れば見るほど変わった町名があります。町名は文化、歴史だと思います。だからなんとか町名復活運動をどうやって進めたらいいのか協力を仰ぎたいと思っています。

北見昌朗


ロータリークラブといいましても愛知県や名古屋市に沢山あります。北見昌朗は、次のような地域のロータリークラブからお招き頂ければ光栄だと思っています。

  • 名古屋みなとロータリークラブ
  • 名古屋ロータリークラブ
  • 名古屋栄ロータリークラブ
  • 名古屋錦ロータリークラブ
  • 名古屋空港ロータリークラブ
  • 名古屋守山ロータリークラブ
  • 名古屋昭和ロータリークラブ
  • 名古屋瑞穂ロータリークラブ
  • 名古屋大須ロータリークラブ
  • 名古屋中ロータリークラブ
  • 名古屋東ロータリークラブ
  • 名古屋南ロータリークラブ
  • 名古屋北ロータリークラブ
  • 名古屋名駅ロータリークラブ
  • 名古屋名南ロータリークラブ
  • 名古屋名北ロータリークラブ

ロータリークラブは、名古屋市外の愛知県下にも沢山あるようです。三河や尾張にも多数のロータリークラブがあるようです。ご依頼があれば、時間の許す限り、次のようなロータリークラブでも卓話をさせて頂きます。よろしくお願い致します。

  • あまロータリークラブ
  • 安城ロータリークラブ
  • 一宮ロータリークラブ
  • 一宮中央ロータリークラブ
  • 一宮北ロータリークラブ
  • 稲沢ロータリークラブ
  • 岡崎ロータリークラブ
  • 岡崎城南ロータリークラブ
  • 岡崎東ロータリークラブ
  • 岡崎南ロータリークラブ
  • 刈谷ロータリークラブ
  • 犬山ロータリークラブ
  • 江南ロータリークラブ
  • 高浜ロータリークラブ

ロータリークラブの卓話において、名古屋の歴史の話をしながら、旧町名の復活の意義をお話ししています。町名復活の話は、実際には名古屋のほかの地域でも同様の問題が起きています。北見昌朗は足を伸ばして、次のようなロータリークラブも訪問させて頂ければと思っています。

  • 三河安城ロータリークラブ
  • 春日井ロータリークラブ
  • 小牧ロータリークラブ
  • 常滑ロータリークラブ
  • 瀬戸ロータリークラブ
  • 瀬戸北ロータリークラブ
  • 西春日井ロータリークラブ
  • 知立ロータリークラブ
  • 津島ロータリークラブ
  • 東海ロータリークラブ
  • 東知多ロータリークラブ
  • 半田ロータリークラブ
  • 尾西ロータリークラブ

ロータリークラブは社会奉仕の団体です。北見昌朗は講師料をもらっても、すぐその場で寄付していますので、お返ししますので、予算はお気にされないで下さい。ロータリークラブは社会に貢献する紳士の集まりです。お招き頂くだけで、光栄です。下記のロータリークラブも対象にさせて頂きます。

  • 尾張旭ロータリークラブ
  • 豊山城北ロータリークラブ
  • 豊川ロータリークラブ
  • 豊川宝飯ロータリークラブ
  • 豊田ロータリークラブ
  • 豊田三好ロータリークラブ
  • 豊田西ロータリークラブ
  • 豊田中ロータリークラブ
  • 豊田東ロータリークラブ