料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第90回(2018.9.14)

明治の南久屋町はお役所街と豪商の邸宅

寛永年間(1624~44年)のことである。初代藩主義直がこの町を通った時の話だ。「この町の名前は、何と呼ぶのか」とお尋ねになった。お供をしていた者が「干物町です」とお答えした。「これからますますこの町は繁昌しなければならない。干物町という名前では何か物足りない。今から町名を改めて久屋町にせよ」とおっしゃった。久しく家屋のある町という意をこめて、初代藩主が名づけた町が、久屋町である。
(『花の尾張の碁盤割』 P.87より)

明治11年愛知県名古屋明細地図
明治10年愛知県庁
南久屋町愛知県庁舎

小袖川を挟んで西が鍛冶町、東が久屋町で万治の大火(1660年)で拡幅された広小路の東詰め、北側が町人街で、南に下級武士の御屋敷が続いていたようです。

明治10年6月に東本願寺内にあった愛知県庁が広小路の終点に移転、新庁舎は木造2階建ての洋風近代建築で、左に県会議事堂、右に警察部が置かれました。

しかし、この南久屋町庁舎も名古屋市の道路改修事業の一つ、広小路を千種駅まで延長工事したことにより、明治33年南武平町に移転しております。現在の中日ビル北と広小路通り・明治生命ビル南一帯と推察されます。

その後、県庁跡地は広小路ロータリーとなり、中央に日清戦役記念碑、南は名古屋市役所、愛知県知事公舎となりました。

大正末期の住宅地図から、現存する名称は南久屋町1-9「名古屋市医師会館」が愛知県医師会館(名古屋市中区栄4-14-28)となって残っているのみです。

西側1丁目3には、上遠野富之助(1859~1928年)邸があります。東京の報知新聞記者であった同氏は名古屋財界のドン奥田正香から、名古屋商業会議所書記長に迎えられ、その後、明治42年には副会頭、大正10年には会頭となって活躍。昭和3年胃がんで逝去、遺言に従って私邸は名古屋市に寄贈され、後に名古屋商業会議所の一部となり、蔵書は商業会議所に寄付されました。

大正末期の南久屋町住宅地図
大正末期の南久屋町住宅地図
上遠野富之助
上遠野富之助
神野金之助(初代)
神野金之助(初代)

上遠野邸の南隣1丁目4は奥田翁のパートナー初代神野金之助(1849~1922年)邸です。神野氏の活躍は、西三河の干拓事業、神野新田開発、明治銀行頭取、名古屋電力、豊田自動織機、福寿生命、名古屋鉄道などの設立経営、貴族院議員、枚挙にいとまがないといえます。大正11年の葬儀は一柳装具総本店による日本初の霊柩車(外車ビム号)の使用例であるとされています。

長男の2代目神野金之助(1893~1961年)は紅葉屋財閥の当主として、名古屋鉄道社長、名古テレビ塔の建設・社長就任、東海テレビ放送設立に関わり昭和30年には日本商工会議所副会頭に就任されました。

なお、名鉄百貨店元社長・国際ロータリークラブ第2760地区前ガバナーの神野重行氏は2代目の孫にあたります。

また、愛知県の明治時代の治水工事で貢献し、地名として黒川の名前が残る技師・黒川治愿(はるよし・1847~97年)も南久屋町の住人でありました。

大正末期の住宅地図、前回紹介した瀧兵右衛門邸の向い南久屋町3丁目12は南久屋尋常小学校があります。江戸時代は小林村といわれ、明治6年第11義校として開設し、小林尋常小学校となり大正4年に紅葉尋常小学校と合併し大正5年には生徒数1328名のマンモス校でした。

戦災で焼失、区画整理で久屋大通の一部となり、中ノ町国民学校と合併して、昭和22年に現在の栄小学校となりました。卒業生には海部俊樹元総理もいます。

南久屋小学校:修了証書と校舎(中区史より)
南久屋小学校:修了証書と校舎(中区史より)