本町通り歴史資料館・開設へ
黒船車祭囃子
本年(2018年)5月13日、第12回栄ミナミ音楽祭のイベント、料亭蔦茂での恒例“パートナーズライブ”が開催されました。
戦前の若宮祭メインイベントや末広町の黒船車祭囃子の再現を楽しみながら、最後の数寄屋造り蔦茂本館を見学。そして、栄ミナミ・インディーズミュージックを散策して末広町の本町通歴史資料館を訪ね、名古屋の町衆の文化を満喫するという楽しい企画です。
毎年5月15~16日、若宮八幡社の祭礼に末広町の黒船車などの山車が登場したのは延宝2年(1674年)からで、最盛期は7輛の山車が氏子町内から曳き出されました。
祭車7輌のうち、目を引くのは地域を代表する旦那衆の末広町のもの。特別に大きな黒船車で、常に先頭を誘導しており、名古屋系船型山車といわれております。
他6輛は名古屋型からくり人形を屋台に配置した山車です。住吉町の河水車を除きすべてが本町通りの各町内所有であり、江戸初期より本町衆の華麗なる旦那衆文化を担っていました。なかでも本町通り若宮に面した末広町神楽団の祭囃子は名物で、代々商店主家族が継承していました。
平成元年から長らく中断しておりましたが、3人の祭好きが中心となり復元され、このたびの若宮祭礼でも神楽殿にてご披露されました。
黒船車祭囃子披露「猩々」
料亭つたも創業館にて(18.5.13昼・開催)
猩々:木村哲央さんご子息・亘君
大太鼓:山本宗平さん(末広町)
太鼓:今枝政紀さん(前塚町)
小鼓:木村哲央さん(矢場町出身)
笛:寺西功一さん(末広町出身)
太田裕隆さん(前塚町)
伊勢門水翁のご親族ほか52名の参加
主催:名古屋中法人会・4支部合同事業
伊勢門水(いせもんすい)とは?
伊勢門水は江戸末期から昭和7年までの末広町住人で、末廣町神楽団を創始した方であり、狂言師であり、名古屋の山車祭りを明治時代に研究して本にまとめ、そして画家・デザイナーでもある、名古屋が誇る一大文化人です。
そんな大先輩を現代名古屋人に広く認識していただくために、門水翁と末広町との関わりを中心に「本町通り歴史資料館」でパネル展示しております。
この資料館は、末広町の所有する末広会館3階に今年2月にオープンしました。
展示内容は、神楽団の山本・木村・寺西さんたちが中心となって構成されました。
末広町八幡講・末広会事務局の笹田勝巳さんが気軽にご案内していただけます。
写真「本町通り歴史資料館」ポスター上から:
1、広小路から北を見る:昭和4年頃
時計台は長谷川時計舗
昭和4年にできたアメリカ式電灯
2、末広町から北を望む:昭和10年頃
左ビル:岩田商店(現・岩田産業、マドラス)
右ビル:扇屋
中央右側:寺尾商店
遠方左:大和生命ビル(建築中)
3、若宮八幡社山門と黒船車の図
戦前までは本町通りに面して、門前は賑やかです。
4、末広町の黒船車
山車2階には末廣町の囃子方、山車周囲には楫方
資料館:名古屋市中区栄3-22-26 電話:052-241-8082 平日10時~16時まで
八事・山本球場について
末広町の山本商店 現在地:栄2-15-18
「センバツ発祥の地」の碑(2016年5月)
山本球場 跡地
そして、山本宗平さんの曽祖父、山本権十郎氏と高校野球発祥・山本球場についてWikipedia記事を紹介してまいります。写真は末広町の山本商店店舗(昭和10年当時)
以下、Wikipediaより引用
1922年(大正11年)、当時の名古屋市中区広路町地内に、中区末広町で運動用具店を営んでいた富豪の山本権十郎が私費を投じて独力で建設した。総面積は約2,800坪、当時の収容人員は約2,000人。左翼側が狭く、右翼側が広いという変則的なフィールドだったものの、名古屋市内では初の本格的な野球場だった。野球場名は山本の姓から山本球場(やまもときゅうじょう)と命名された。また周辺には山本球場の他にも、市内の学校や企業が野球場やグラウンドを設けていた。
1924年(大正13年)、選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)の第1回大会が開催された。これは当時の大阪毎日新聞社(現毎日新聞社)の意向によるもので、中京圏の野球ファンの要望に応えるという目的と、夏の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)で関西地方の学校の優勝確率が高いことが、関西の風土に関係あるのか(或いは関西の球場で開催される地元で、移動による負担が少ないことが影響しているのか否か)を確認するという意味合いがあった。全国から代表校8校が山本球場に集い、初代優勝の栄冠は香川県立高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)に輝いた。また問題の関西勢は3校出場したが、合計1勝にとどまっている。しかし、翌年の大会からは選抜大会も阪神甲子園球場での開催となり、以後山本球場では旧制中学野球・高校野球の全国大会本大会が開かれることはなかった(1950年の愛知国体も鳴海球場が会場だった)。
戦後、昭和22年に国鉄の所有となり国鉄八事野球場として使用されていましたが、現在は宅地開発され滝川地区のマンション街となっています。