南呉服町二丁目南・プリンセスガーデンホテル界隈
広小路から南3つ目ブロックは鉄砲町、住吉町、南伊勢町は3丁目。どういう理由か、南呉服町には3丁目がなく2丁目が南にのびていました。昭和30年代の三蔵通りから南となる南呉服町2丁目をご案内してまいりましょう。
西角地は「ブラザーミシン名古屋営業所」、割賦販売の営業マンとショウルームを訪れる人々で賑わっていました。大きな3階建ビルでしたが、その後かに本家「寿司道楽」から、現在は全国に展開する街のごはん屋さん「宮本むなし」となり、24時間営業で深夜勤務のスタッフやサラリーマンランチに喜ばれています。
西隣「喫茶ドール」は粋なママが思い出されます。現在はレストランのマイネクライネとなり、ドイツ風内装と家具の洒落たカフェへ。お隣の住吉町の料亭らく楽さんが土地買収されたようで、同社インペリアルプラザは住吉ではなく南呉服町町内会メンバーとなり、らく楽の社長白瀧さんはプリンセス大通り商店街の代表でもあります。
「喫茶カトレア」は近所の皆さんから長年愛された店で、店の前のコーヒーの香が忘れられません。小さなカップ・エスプレッソに近い濃い味で辛い小型ピーナッツと相性がよく、繁盛していましたが最後までモーニングサービスはなかったように思われます。モリシマの番頭さんたちが毎日通っていましたので、社長の私は遠慮していけなかった記憶があります。その後、杉本さんのカレー専門店を経て、鳥笑・ガブリチキンと若者から人気の店に替わりました。メリヤス卸「KK山発商店」はスパゲッテイこだまとカレー屋さんココ壱番となっているのでしょうか?
「名古屋美術倶楽部」については、昨年11月の「語り部」(第32回)に詳しく紹介させていただきました。
現在、赤から鍋店は「中山畳店」跡地で、多くの畳職人さんが玄関先で作業されていました。この前を祖父が通ると必ず「終戦直後は土地より畳の値段のほうが高かった!」と口癖のように正雄君に語っていました。
「とんかつのブルドッグ」は地元の名物でサックとしたカツのコロモにオリジナル・ブルドッグソース、細く千切りされたお代わり無料のキャベツが大好評でした。最近までインペリアルプラザ一階で営業されていましたが、何処へ行かれたのでしょうか?
写真:1 質屋岩正と清水美容院(ビューティサロン敦子)
楽器屋の「三木商店」跡地に「山本屋総本家」さんが30年程前に南より移転されました(第30回参照)。
ビューティサロン敦子と看板を替えた「清水美容室」のみが、このブロックで当時より残っているお店といえます。
きしめん「げんき庵」となった吉田さん宅、古民家風の町家造り岩田邸は「質屋岩正」として当時営業されていたようです。(写真1)
東側ブロック(現:栄3-13)では、当時から現存する建物は北西角・南呉服町ビルのみとなりました。4階にはオーナーさんの住まいがあり、1階は多くの飲食テナントが出入りしております。
写真2:南呉服町ビル・交差点の信号柱上に中警察直結のスピーカー付大型監視カメラ
舗道・信号機ポールにスピーカー付大型監視カメラが常設されているのをご存じでしょうか? 悪質な客引きなどに「おい、こらお前らなにやっとる!!」とマイクから警察官の警告アナウンスがある中署直結のリモート設備で、常時、中署内でチェックできるそうです。最近は、プライバシー問題を意識してかマイク音が聞かれませんが、カメラが常に北側の「出会いカフェ」に焦点が合っているように思われます。(写真2)
写真3:スポーツ用品(株)綿森商店(アシックススポーツスタイルショップ)、 角忠うどん店
スポーツ用品卸大手の「(株)渡森商店」さんはアシックスに買収され現代風のスポーツブランドショップとなりましたが、お隣の「角忠うどん店」はいまも元気に営業されています。(写真3)
清水美容室さん、角忠さん、そして伍味酉・佐藤嘉晃さんの町内三親父が中央高校跡地・建設プロジェクトで侃々諤々議論の末、現在のナディアパークが平成7年に誕生したと聞いております(第20回参照)。
同地では同じ教室を2つの学校が使用、昼は前津中学分校、夜は中央高校でしたが、生徒の減少で仮設の名古屋中郵便局、中区役所となり両施設の代替オフィスとして機能しておりました。
「三枝商店」はマエマス画廊さんに、子供の頃お世話になった歯医者の野田さんはサークルK。メリヤス会館前には素敵な庭があり、理事長は「リオ横山」の横山章一創業者がお勤めであった記憶があります。ここでは寺島さんがカフェドクリエの上階にいまもお住まいのようです。カップトロフィーの「誠光社」さんは栄センタービルの地権者、「三矢医院」さんはイタリアレストラン・マリノとなったようです。
(南呉服町1-2丁目北、プリンセスガーデンホテルについては語り部第34回に述べさせていただきました)
南呉服町2丁目三蔵通り南、中区住宅地図 P14-15合成、昭和35年頃