渋澤栄一翁・神田鐳蔵祖先建碑除幕式に来名
2024年上期から発行される新1万円札の肖像画には日本の資本主義の父とされる実業家の渋沢栄一、裏面は東京駅舎のデザインと発表されました。渋澤氏は全国各地に信奉者も多く、様々な会社設立等に関与しております。今回は、大正4年、渋澤翁が子分・神田鐳蔵(かんだ・らいぞう)の激励のために名古屋来訪されたお話をご紹介してまいります。
祖父・深田良矩は愛知三中を卒業後、明治末期より蟹江・須成村市場近隣の酒造業者・紅葉屋の神田鐳蔵に師事して名古屋で金融業を営み、東京で活躍する相場師鐳蔵を地元で支えていたようです。明治5年生まれの鐳蔵は渋沢栄一とも親しく、現東京証券取引所設立に尽力し、外債発行で活躍。日露戦争後は紅葉屋銀行を創設、株式市場のみならず横浜倉庫の経営、逗子開成中学の再建、浮世絵コレクションなど八面六臂の活躍をされました。
須成から名古屋進出にあたり、良矩は鐳蔵の弟分として、伊勢町界隈で新株発行引受部門を担当しておりました。また、同郷の後藤道政は神田銀行の名古屋支店長として資金面で両名をサポートしていたようです。
インターネット百科事典の「コトバンク」には、神田鐳蔵について下記のように紹介されています。
神田鐳蔵名古屋商〔明治21年〕卒後、家業の酒造業に従事。明治26年名古屋株式取引所創設と共に、株式の思惑買占で40万円という巨利を得たが、日清戦争後の不況下に破産。
32年上京、紅葉屋商店を創設し、有価証券の仲介業を営んだ。鉄道株の売買で巨富を築き、渋沢栄一の援助で国債の欧州輸出を行うなど、“証券界の鬼才”と称された。
のち紅葉屋銀行を創設、大正7年神田銀行と改称。
さらに諸会社を主宰し、育英・公共事業にも関係したが、昭和2年金融恐慌で倒産した。
渋澤翁は大正4年4月3日、神田鐳蔵家の家系碑題字を揮毫して、除幕式に出席祝辞を述べております。前日に東京を東海道線にて発し、上園町の丸文楼に宿泊。丸文は名古屋の高級人気旅館で広小路秋琴楼、竪三蔵町の名古屋ホテルと並ぶ名門トップ3でありました。(中京新報人気投票より)
翌朝は7時に起床入浴、朝食後、伊藤守松(いとう呉服店)、中井巳次郎(京都中井紙店・名古屋別邸は料亭かもめ)などの訪問を受けたのち、鐳蔵とともに午前9時名古屋駅より貸し切り列車で蟹江に到着。松井知事、阪本市長ほか名士とともに、名古屋の芸妓100名余り(おそらく祖父良矩が手配)も同行したとのこと。家系碑のある須成・善教寺は園遊会で大賑わい、雨模様にもかかわらず蟹江川堤・満開の桜と山海の珍味を揃えた屋台料理で午後4時まで200名を超える宴が催されました。
渋澤翁の日誌『竜門雑誌』第324号P67より当日の様子:建碑委員の後藤直藏の式辞、神田氏の除幕とともに東別院輪番導師十数名の読経の後、青淵先生(栄一の号)演説について原文を下記に引用します。
石碑の文字は私が書いたのであります、未来迄恥を残すは恥づべき次第と思つたが懇請に依て書いた、凡そ人が祖先を祭ることは最も喜ぶべきことであつて、帝国臣民としても孝道を尽さなくてはならぬ、神田君が功を立てたのも畢竟善の家に余慶ある訳である、元来尾張の地は今より三百年前に豊臣秀吉を出し、之についで加藤清正福島正則・前田犬千代等を出したが、これ治国平天下のことであつたが、今日は実業家に限ると思ふ、而して今や神田君の如き実業家が出て、三百年間の英雄と勲を等ふすることは大に賀すべき次第である、古語に錦を着て故郷に帰るといふことがあるが、桜を着て古郷に帰るといふも讃辞でないと思ふ云々
鐳蔵は日露戦争で資金調達・外債募金に尽力、財をなし、明治43年には逗子開成中学が七里ヶ浜ボート遭難事故で大きな負債を抱えて廃校の危機に陥ったときに、負債の一部を肩代わりし窮状を救うなど教育にも熱心でした。2009年蟹江町教育委員会主催で同中学高校の元校長袴田潤一氏がお越しになり、神田鐳蔵セミナーで偉業をたたえていただきました。
須成・神田鐳蔵家の家系碑:後方が蟹江川 かつて川沿い桜並木が名物でありました(左)
善教寺:深田家代々の墓、家系碑の手前にあります
大正7年、神田銀行を設立し、倉庫、土地、生命保険、信託などの多角経営を展開。全盛期には浮世絵の海外流出を防ぐために収集した「浮世絵風俗肉筆名作コレクション」別名、神田雷藏コレクションが有名で、現在は大倉集古館(ホテルオークラ内)に一部、承継されています。しかし、昭和2年の金融恐慌により破産しました。
昭和9年12月8日、63歳で逝去、偉大な人物で、須成善敬寺境内に渋沢栄一筆による家系碑があります。
稲沢・荻須高徳のご縁からエコール・ド・パリ、瀬戸市ゆかりの北川民次からメキシコ・ルネサンスのコレクションほか、ユニークな特別展示が常時企画されています。また、公園内周辺には多くの彫刻作品があり、木陰を散歩してゆっくり楽しむのも一興です。
大正4年3月大日本雄弁会発行『時勢と人物』第3編人物百方面、福沢桃介に続き#39に神田鐳蔵の評が桃介と比較して記載されているので、以下に要約して紹介します。
鐳蔵は福桃同様の苗木だ。桃介は学問、鐳蔵は経験・・・長閥に縁故が深い実業家で、候井上、公桂への出入りで活躍。大隈内閣の非募債主義で厳しい環境である。『如何に金篇に雷でも、雲の無い所では財界を振動させる様な轟音を発することも出来まい』と厳しくコメントされています。
彼は22歳の時から株式界に身を投じ、名古屋で鵜飼の鵜見たように失敗をしてから、裸一貫の男となって東京に現れた。その後、苦心を嘗めて、努力奮闘した結果資産を作り、冒険的投機を避けて現物一方で大いに儲けた。それから、公債の大注文を引き受けるやら、海外輸出の先鞭をつけるやら・・・いつしか紅葉屋銀行の基礎を築き上げた。冨力や事業界の勢力は桃介に及ぶまいが、いわゆる新境地を開拓すべく骨折る点は注目すべきだ。桃介は投機的機敏で頭角をあらわし、褒められても余り嬉しそうな顔をせぬが、神田はおだてられると有頂天となる。故に公共事業や教育文化活動に駆り出され、女子大学出身の細君に尻にひかれているようである。
祖父、良矩は鐳蔵を信奉し、名古屋での証券引き受け業で当時は桃介の起業する電力関連の各社新株元受けで頑張っていたようで、接待場として大正2年に「料亭蔦茂」を購入しました。昭和2年に神田氏とともに破産して妻(祖母・静江)が旅館として細腕繁盛記の如く、再興して現在に至っています。
また、平成28年12月ユネスコ無形文化遺産に登録された「須成祭」は江戸末期から地主資産家が支え、後藤家、深田家、奥田家が身上(シンショウ)持ちとして紅葉屋酒造の神田家とともに資金面でのスポンサーとなったのでありました。
紅葉屋園遊会記念集合写真(三列目中央:商会三傑・渋沢栄一、
右が浅野卿、左が大倉卿左上ホスト役:神田鐳蔵)明治39年国債輸出記念・牛込砂上原町の神田邸
須成祭や神田鐳蔵の功績については、下記に資料などが展示保管されています。
蟹江町歴史民俗資料館 http://www.kaninavi.jp/html/visit/rekishi/
蟹江町観光交流センター(平成30年5月オープン)「祭人」:http://saito-kanie.jp/
関連の人々の年表:
渋澤栄一:1840~1931年
福沢桃介:1868~1938年
神田鐳蔵:1872~1934年
深田良矩:1888~1972年