料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第96回(2019.3.14)

栄そして栄ミナミ 歴史と由来

名古屋栄の歴史と由来について、お話ししてまいりましょう。

現在の栄地区は昭和41年の新住居表示実施により設定され、大まかには北は広小路、南は若宮通りが南北域となります。西の堀川から伏見通りまでを栄1丁目(御園地区)、本町通りまでが2丁目(白川地区)、久屋大通までが3丁目(住吉地区)、その西が4・5丁目(武平町・東新町)となりました。

この地は藤野と呼ばれる台地の南で大津通が小高い丘となり、豊富な地下水と泉に恵まれた里山であったようです。西に紫川流域があり、1丁目は北から2本の流れが合流しています。水量も多く、古代の海進時代・堀川以西は海岸線で、栄小学校南周辺には竪三蔵遺跡と呼ばれる約2万年以上前の旧石器から縄文時代のナイフ形石器や鏃(ヤジリ)が発掘されています。海の幸や果樹の実にも恵まれ、紫川に水を求めに来たシカやイノシシの狩りをしていたようです。

名古屋 遺跡

2丁目白川公園遺跡では縄文から弥生時代、栗・ドングリやクルミなどがとれる豊かな森で木の実をすりつぶす石皿・土器が発見されています。農耕の跡もあるようです。紫川は科学館北の白川通りを東から西に流れていました。3丁目では泉が湧き出し、江戸時代には地下伏流水を利用した「住吉屋」という造り酒屋があったので、街の名前が碁盤割七間町の南は住吉町となったといわれています。西の丘を越えて、4丁目は藤原師長由来の「小袖川」が北から流れます。フラリエ近辺では、精進川に注ぐ高低差のある風光明媚な邸宅が明治の頃には並んでいたようです。

宝暦12年(1762年)名護屋路見大図:現在の栄1-5丁目 左端が堀川、右端が武平町界隈
宝暦12年(1762年)名護屋路見大図:現在の栄1~5丁目 左端が堀川、右端が武平町界隈

清須越し碁盤割外の東南隅で南寺町に至る場末の境からサカエと呼ばれたと祖父から聞いていましたが、明暦年間(1655~1658年)頃から栄村(さこむら、のちの中村区栄生町)の住民が店を出して商売をするようになったことによるという説もあるようです。

江戸時代は大規模な商人の本町通り、三業者(芸者・置屋・料亭)遊興の住吉通り以外はほとんどが下級武士住居であり、南隅が寺町となっていました。万治の大火(1660年)後は防火帯として広小路ができ、庶民の広場として賑やかな下町の中心となりました。

「栄町」という町名が正式に成立したのは明治4年(1871)で、広小路長者町より栄町1丁目から南久屋が栄町7丁目となりました。その後、東海道線笹島駅オープンに伴い、名古屋電気鉄道(市電)が明治31年開通し、広小路が笹島(名古屋駅)と中央線千種駅につながりました。これにより官庁・金融街が集約され、南北の大津通に熱田と結ぶ市電が開設されました。

明治43年、栄町5丁目交差点の南西角、火災で焼失した名古屋市役所跡地に移転して中京の百貨店の先駆けとなった株式会社いとう呉服店(後の松坂屋)が栄町5丁目南角に開業し、栄界隈が大変化を遂げてきました。

戦災で栄学区はほとんどが焼失して、土木技師・田淵寿郎がリードする都市復興計画によって道路と公園が50%を占める新しい碁盤の町割りとなり、町名も明治のころから南○○町と呼ばれる通りが多くなりました。

広い通りを活用したイベントとして高度成長の続く昭和45年(1970)、南大津通の栄交差点から矢場町の区間で日曜遊歩道「歩行者天国」が始まりました。毎週日曜日には多くの人で埋め尽くされましたが、交通量の増加もあって昭和59年(1984)に中止されました。近年復活の声に応えて2012年「ホコ天」が復活され、毎年春秋の日曜日の楽しい憩いの場を提供しています。

中日ビル回顧写真展より
中日ビル回顧写真展より プリンセス大通り(左) 住吉町 アーチ記念イベント

昭和57年、当時の南呉服町商店街・佐藤嘉晃理事長(伍味酉社長)が新設プリンセスガーデンホテルからの賛助金でアーチを建設。通称「プリンセス大通り」と命名されました。

そして、昭和60年には灘家・伊藤泰弘氏のリーダーシップのもと住吉町のアーチも完成し、栄繁華街が年々賑やかになってまいりしました。平成9年のナディアパーク開業にともない住吉景観地区協定を実施、254枚の歩道用陶板絵タイルを埋設するなど奮闘されておりました。

昭和52年には栄2~3丁目18の各町内会が連合して「安心・安全な町づくり」をテーマに「栄中部を住み良くする会」が設立されました(平成19~23年まで小生が会長を務めさせていただきました)。この頃には、住吉地区や栄中部ではなく、栄ミナミという呼称で表現されるようになりました。

「栄ミナミ」の名称は(株)ゲイン社長の藤井英明氏の発案です。雑誌ケリーでサカエPR、そして、同社関連の外食・美容関連事業が新しい町づくりに貢献、栄ミナミ音楽祭の開始とともに栄ミナミという呼称が市民権を得たようです。

しかしながら、歴史も文化も感じさせない、情緒のない町名ではなく、三蔵、御園、伏見、桑名、長島、八百屋、鉄砲・末広、住吉、呉服、伊勢、大津、鍛冶屋、久屋、武平、瓦町などと旧町名の呼称をもっと大切にしていきたいと思っております。

平成24年2月に有志が集まり「名古屋の旧町名を復活させる会」を立ち上げ、毎月、セミナー開催するなど啓蒙活動をいたしておりますので、名古屋城木造復元活動とともにご支援いただければ幸いです。