料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第91回(2018.10.16)

南武平町…松井武兵衛と吉田禄在の街づくり功績

中区役所北の公開空地に表示された昔の広小路説明パネル(下は名古屋市役所)
中区役所北の公開空地に表示された昔の広小路説明パネル(下は名古屋市役所)

明治33年、名古屋市の道路改修事業として広小路を千種駅まで延長工事したことにより、新しい官庁街が南武平町に建設されました。現在の中区役所北に下記のパネルが掲示され、当時の様子が説明されています。パネル上の写真は、現在の中区役所付近、日清戦役第一軍戦士者記念碑と路面電車道、奥が愛知県庁、手前が名古屋市役所(写真下)です。

大正9年、記念碑は解体されて覚王山放生ケ池の畔(現在は日泰寺内)に移されました。 服部鉦太郎『明治・名古屋の顔』は、記念碑移転のいきさつについて、次のように説明しています。

栄町より千種町西裏まで開通したのが、明治三十六年一月三十一日であった。 そこで、電車は、この記念碑を組み上げた台座の石積の周囲を、半円を描いて千種の方へ東進し、あるいは栄町の方へ西進していた。この半円を行進する際に、キー・キーと異様な音響を立てる。これはレールの曲線と、車輪がキシムために起るもので、これがかなりの大音だった。普通の音声で会話していては、お互いに聞き取り難いほどの音響であった。 ところが、この記念碑の東北側に、県会議事堂があり、この議場では、電車の曲線進行の音響のため、議事の声が聞き取り難いということになり、ついにこの記念碑が移転されるという運命になった。

現在の中区役所から南へ元禄在邸を望む
現在の中区役所から南へ元禄在邸を望む
明治42年南武平町地図と現在地(青色)
明治42年南武平町地図と現在地(青色)

北見昌朗氏複製制作による明治42年営業案内地図から、南武平町2丁目・愛知県庁北には、県立女学校、愛知県測候所、東には名古屋警察署、赤十字社愛知支部、西向い角は尾三農工銀行(後の日本勧業銀行)があり、現在の施設と対比いただけます。

武平町の名称について東区ネット・町名の由来によると:

藩祖義直の家来に松井武兵衛という御普請奉行がいた。禄高400石、清洲から遷府の際、城の南に居を構え、城下町の設計に当り、町割り・屋敷割りの検地を行って、碁盤目の区画をつくりあげた功労者である。その功をたたえてその住居付近を武兵衛と呼んだが、のち兵衛を短くして平と書くようになった。

武兵衛は家康の命により清須越しを所轄、豊臣恩顧の大名の資金と労役を駆使して、バラバラであった清州の町衆を町名もそのまま中央部の碁盤割に移転しました。その際、寺社仏閣は宗派にわけて南寺町、東寺町を形成、万が一の外部からの攻撃に備えて松平の頃からの家老の菩提寺を碁盤割南に移設しております。そして、大木戸と各所木戸による城郭形成と町の自治を庶民に委託して世界に類ない見事な都市移転開発をしております。

また、豊富な木曽の伏流水から紫川、小袖川の流れと各ブロックに井戸を20~30本掘削し生活用水とし、ゴミゼロ社会、そして糞尿処理を汲み取りで近隣の田畑に下肥として活用。この素晴らしい環境循環社会には、現代人が見習うべきポイントが多くあります。

町人衆の碁盤割の東隅武平町には中級武士の屋敷が並び、武兵衛が居住していた地については諸説あります。郷土史家水谷盛光氏によれば愛知県立第一高等女学校(地図・県庁北)があった現・栄公園付近とされています。名古屋の地名で個人の名前が承継されているのは、黒川の名前が残る技師・黒川治愿(はるよし・1847~97年・南久屋町の住人)と武兵衛のみで二人とも名古屋の大恩人です。

現中区役所北東角の100年前武平通り説明パネル
現中区役所北東角の100年前武平通り説明パネル

南武平町3丁目にはナゴヤ歴史探検『名古屋の近代化の礎を築いた偉人』(名古屋市教育委員会発行)のトップに紹介された吉田禄在翁3000坪の邸宅が、現在の中区役所西・記念パネル「100年前ここから見た武平通」に表記されています。禄在は明治16年初代名古屋区長として東海道線ルートを起案し名古屋へ誘致させ、そして、広小路を長者町筋から西に拡幅、笹島の名古屋駅まで整備し街の開発に寄与しています。その後、中央線の千種駅開設に伴い、広小路を東に延長、武兵衛と並ぶ名古屋街づくりの恩人といえます。

禄在宅は南に5mほど低くなり高低差を活かした野趣にあふれる庭園から、山田才吉が開発した東陽町通りをへて堀留となり、精進川の源流となっていました。この精進川を改修して現在の新堀川建設、そして、浚渫土を活用して鶴舞公園埋め立てに貢献しています。他には、区役所の新築、戸籍の整備、名古屋城金鯱の保存、伝染病隔離病棟の設立、米商会所の設立、第十一国立銀行設立などの多くの功績を残しています。

区長を辞した後、名古屋実業界において活躍し、自身が設立に関わった米商会所頭取、その後身の名古屋米穀取引所理事長、第四十六国立銀行頭取に就任しております。

名古屋市近郊の愛知郡御器所村(現昭和区鶴舞)に別荘地を保有しており、第10回関西府県連合共進会開催による鶴舞公園整備に伴って寄付し、かつての別荘地(現在の野球場周辺)には吉田の名を取って吉田山の名称が残されています。

私は名古屋都市づくりの三英傑として、武兵衛、禄在、そして、空襲で焼け野原となった名古屋の復興計画を実行した田淵寿郎の3氏を挙げ、偉人たちのプランや思い入れを私たちの街づくりの原点として大切に語り継ぎたく思っています。