料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第88回(2018.7.21)

末広町の風雲児・山田才吉

漬物製造「喜多福」若宮隣にオープン

末広町・代々の旦那衆伊勢門水(1859年~1932年)は御洒落会を主宰し、町衆文化を堪能されました。同時代のもう一人の奇人、山田才吉翁(1852年~1937年)は岐阜市大仏町で出生し、若くして家を飛び出し、板前修業しながら江戸など各地を転々としていきました。

才吉は明治11年、26歳で大須門前町漬物店を開業し、1880年(明治14年)5月15日、若宮祭礼にあわせて、末広町八幡社門前に間口12間の漬物屋「喜多福」を開店しました。この頃に「守口漬(守口大根の味醂粕漬)」を考案したとされ、これが評判を呼び、本町通に据えられた陣太鼓の威勢とともに紅白の幔幕が引き上げられました。

例祭に繰り出した人々に長良大根と青瓜の守口漬けを大皿に盛り大試食会! 表戸は総ガラス張り、色とりどりの香の物・鯛味噌、南蛮渡来のワインに洋酒!

北の町内・大久保見町の福禄寿車(現存)は店名の「福」と重なり縁起を担ぎ、全戸にウリの守口漬をプレゼント。末広町内には「末ながーくよろしく」と長良大根の守口漬を贈りました。この一件で、才吉は一躍、末広町の旦那衆の仲間入り。

本町の喜多福 喜多福のホームページより
本町の喜多福 喜多福のホームページより

末広町に店を構えたこともあり、才吉は地元財界からもヒッパリダコで、名古屋商業会議所、市会、県会議員の公職、愛知県五二会と称する勧業団体を結成しております。1884年(明治17年)には日本缶詰を立ち上げて、愛知県下で初めて缶詰製造販売に参入。日清戦争・日露戦争で大量の軍用缶詰の注文を受けて、さらなる財をなしたようです。

道路開発から東陽通り商店街

勝間田稔愛知県令
勝間田稔愛知県令

「民業奨励」政策で、缶詰工場用地として港新開地(現・東築地5号地)5万坪を県から払い下げてもらったこともあり、明治19年に元長州藩士・勝間田稔愛知県令(知事)より、喜多福と隣接する若宮北の「おたび所横町」から南鍛治屋町を経て千種村に至る道路の開発を依頼されております。当時の国道並みの4間幅(7.2m)として総延長1600間(約3㎞)の沿線地主を説得し、将来の鉄道整備に備える意向であったと思われます。

才吉は持ち前の器量と実行力を発揮。苦労に苦労を重ね、懸命に地域の了解を得ました。

晴れて、沿線の工事に着手できたのは7年後の明治26年、時任爲基知事(薩摩藩士の息子)の時代になってからといわれています。当然、才吉は県の計画に便乗。前津小林、南武平町、南久屋町、そして、御器所村、千種村の大地権者となったようです。大津通から中央線千種駅南までの「東陽通り」は何と12丁目まであり、名古屋では最も長い町内として千種、吹上、御器所への幹線ストリートとなりました。

明治30年3月1日、才吉は、東洋一の都心リゾートといわれた遊園地付テーマパーク料亭「東陽館」を創業しています。

東陽館・本館と前庭(沢井鈴一HPより)
東陽館・本館と前庭(沢井鈴一HPより)

そして、都心の遊園地付テーマパーク料亭「東陽館」を東陽町4丁目(中土木事務所周辺)に、明治30年3月1日に東洋一といわれる都心リゾートがオープンしました。「一流料亭の味を一般庶民に」のテーマで御殿風の木造2階建て、内部に料理店・温泉・雑貨店・遊技場まで完備、大庭園は池をメインに山水楼閣を配し、多くの市民が訪れました。

矢場町からの東陽館への門前通りは賑やかに発展し、戦前は名古屋五大商店街の一つと言われておりました。当時の名古屋観光は昼に名古屋城を見物して、夕刻からは東陽館で庭の風情を愛で、山海の珍味に舌鼓が名物コースとなりました。また、同年5月には御園座開業、旭廓を擁する大須と庶民文化に花が咲きました。

東陽館の名をとって付けられた東陽町が誕生したのは明治26年、矢場町から丸田町、老松へと東陽館に通じる道路が開けました。この道路を中心として、田は宅地へと変わってゆき、東陽町が誕生した明治26年の戸数は60戸。明治44年には4千余戸へと、またたくうちに戸数はふえていったといわれています。

東陽館については、「住吉の語り部となりたい No.49」で記しましたので、バックナンバーをご覧ください。(沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町・東陽通り」)

守口漬元祖喜多福総本家と才吉の財界活動

大正3年にきた福の番頭、安藤與吉が暖簾分けし、安藤商店(松喜屋)を広小路伏見に開業。3代目安藤米秋が戦後大活躍し、名古屋名物「なすからし漬」を発案。鉄道弘済会(キヨスク)で好評となり、現在は5代目安藤郁子さんが(株)喜多福総本家を承継し、本店を中村区日ノ宮町に移転して漬物製造販売をされています。

東陽館は明治36年に焼失しましたが、才吉は水族館・プール併設3階建「南陽館」を築地(現東築地小学校)に、可児市に木曽川河畔リゾート「北陽館」を開業しました。

そして、大正4年には東海市聚楽園に鉄筋コンクリート大仏、海水浴場(現在の愛知製鋼)、料亭など海浜リゾートの先駆ともなりました。

末広町からの財界人として、才吉の事業は、漬物・缶詰製造販売、「中京新報」新聞の発刊、中央市場(株)、大曽根市場のほか、南陽館へ誘客する電気鉄道事業「熱田電気軌道(株)」、名古屋瓦斯(株)発起人など、多岐に亘りました。

家庭では、幼馴染の「なつ」と明治9年に結婚。苦楽を共にしながら、同年末に瀬戸で鰻蒲焼き「山才屋」を興し、夫婦で事業スタートしました(翌10年に熱田に移転)。しかし、「なつ」は健康が優れず、子宝に恵まれることができなかったため、親族の後継者を得ることはなかったようです。また、チャレンジした施設は火事や台風の災難に遭い、波乱万丈の人生といえます。詳しくは、『不屈の男・山田才吉』藤沢茂弘著をご覧になっていただきたく思います。

「ナゴヤ歴史探検」
名古屋市教育委員会発行(2018年5月20日刊)
『ナゴヤ歴史探検“名古屋近代化の礎を築いた11人の偉人たち”』
#9(P.76)より転載

今年5月に名古屋市教育委員会が発行した『ナゴヤ歴史探検“名古屋近代化の礎を築いた11人の偉人たち”』#9(P.76)に栄ミナミから唯一・末広町の山田才吉翁が紹介されていますので、下記にそのまま転載させていただきます。

引用と参考文献:
『不屈の男 名古屋財界の怪物・山田才吉』藤沢茂弘著 発行:ブックショップマイタウン 平成25年4月1日刊
『名古屋商人史話』林董一著 発行:名古屋市教育委員会 昭和50年12月10日
『名古屋本町通りものがたり』 発行:堀川文化を伝える会 平成18年3月15日