料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第81回(2017.12.21)

蔦茂旅館の営業と飲食税・公給領収書

蔦茂旅館
蔦茂旅館の樹木

現在の蔦茂本店玄関は、戦災復興直後の昭和21年のままの面影です。植木は樹齢80~100年で、72年前の植樹以来、そのまま元気に育っています。

クロガネモチ、棕櫚(しゅろ)2本が緑を保っています。ヤマモモは桜の終わる4月に数珠つなぎに小さな桃色の花弁4枚の目立たない花をつけ、6月ごろに黒赤色の丸い果実を結ぶとともに、小鳥が群がるのが楽しみです。

卯月・住吉の街路樹キクモモの真紅の花との競演は、趣豊かな情緒を感じさせます。そして、住吉名物の紅葉が東南角に2本あります。秋が深まると板場の者たちは長い鋏を使って採り、紅葉は会席料理の飾りに活躍しております。

ビル2階「竹の間」玄関ビル:H25年に売却、建物は現存、現在は地鶏坊主
ビル2階「竹の間」(左) 玄関ビル:H25年に売却、建物は現存、現在は地鶏坊主

戦後、朝鮮動乱で産業も復興し景気は回復。蔦茂は旅館業から料理業経営に主力を移し、昭和26年には料亭として看板を掲げます。岩城誠一郎氏設計による別館4階建て鉄筋ビルを建設。玄関と宴会のできる和室を4室つくり、またビルの中に畳と数寄屋造りの部屋が完成すると、全国の話題となりました。
お庭・建物HP紹介:http://tsutamo.com/first/#garden

ここで、飲食税についてお話をしていきましょう。税務大学校の租税資料によれば、

遊興税は、大正8年(1919年)5月に石川県金沢市が初めて市税として創設しました。条例は、「本市内に於ける料理店、貸席、貸座敷にて芸娼妓を招聘して飲食又は遊興をなし金員を消費せしものに課税する」となっており、芸妓の招聘を伴うことが条件でした。金沢市の遊興税導入は他の市へと波及していき1年後には5県38市まで広がりました。大正15年(1926年)には、地方税法の改正により府県税として課税することもできるようになり、昭和14年(1939年)の段階では、全道府県が府県税として導入していました。遊興税は、昭和14年(1939年)に遊興飲食税として国税へ移りました。
遊興飲食税(国税)では、芸妓の招聘を伴わない料理店等での飲食代や旅館(ホテル等を含む)の宿泊料なども課税対象にされました。
遊興飲食税(国税)の税率は、遊興飲食の内容や税法改正により変わります。芸妓への支払代金(花代)で見ると、導入当初は20%でしたが、昭和19年(1944年)には300%にまで跳ね上がりました。この異常な増税の背景には戦争があり、「消費の抑圧」及び「国民精神の緊張に資する」という理由が挙げられていました。遊興飲食税(国税)は昭和22年(1947年)3月で廃止となりますが、同年4月から再び地方税としての遊興税となりました。その後、遊興税は、遊興飲食税、料理飲食等消費税、特別地方消費税と名称を変えて存続しましたが、地方消費税の創設等の理由により平成12年(2000年)3月に廃止となりました。廃止時点の税率3%、免税点は宿泊15000円、飲食7500円以下非課税。

玄関庭の井戸
玄関庭の井戸
中庭の錦鯉
中庭の錦鯉

そして、昭和30年11月1日から遊興飲料税が改正となり、同時に公給領収証制が導入されることとなりました。この公給領収証制は、勘定を払った客に対し、業者が必ず渡さなければならないもので「各都道府県が発行し一枚一枚写しをとってゴマかせない仕組となっているので、業者は領収証の写しの集計で総売上げをはっきり押さえられ、ひいては所得税にまで影響してくる」というものであったようです。課税対象は、課税最低限を超える全額で、芸妓花代はもちろん、すべての飲食と宿泊代の10%でした。

実情は、料亭などは「領収書いらないから飲食税10%割引せよ!」というお客の対応に苦慮し、「断れば店には行かないゾ!」・・・公給領収書を出さないまま営業すると売上が簿外となり、今度は裏金を増やす結果となりました。

使いみちに困った料亭の親父たちは、自分の道楽や書画骨董、什器・備品に贅を尽くすこととなりました。当店も輪島の大向高州堂の超高級漆器などがイッパイで、とても今ではお金で買えない器が残っています。そして、ウン百万円と噂される蔦茂名物の錦鯉たちが優雅に泳ぐ池となった次第です。

当店にある清須越しからの3本の井戸は、常に33尺ほど地中の水温17℃の豊富な地下水に恵まれていました。しかし、本年1月に井戸が枯れる事態に見舞われ、復旧に10日間ほどかかりました。これまでの私どもの歴史にない地殻の変動からか、水脈が変わったようで、上水道の水温になじまない古参の錦鯉のほとんどが天国に召される事態となりました。

個人の名義貸しの念書 個人の名義貸しの念書
登記簿謄本:地番・新栄1-2617、4名の役員共同所有として登記
登記簿謄本:地番・新栄1-26-17、4名の役員共同所有として登記

また、名古屋中旅館組合が公給領収書の配布、飲食税徴税の代行を実施しており、多額な報奨金が組合に支払われておりました。飲食税報奨還付金と組合資金で昭和31年9月20日に、中区新栄1-26-20の土地139.67㎡と平屋52.06㎡を取得しております。

組合には法人登記がないため、山泉・伊藤鉄之助、蔦茂・深田良矩、らく楽・白瀧京次郎、蓬莱・佐治捷一の役員4人の個人名義で取得していました。この共有地は、バブルの末期、平成2年7月に1平方メートルあたり229万円・総額3億2000万円で売却。名古屋旅館組合関連の基金として有効に活用されていると聞いております。

平成元年には、政府のバブル鎮静化政策の一つとして「地価税導入」が決定しました。私どもを含め繁華街に土地を所有する料亭では、坪1000万近い評価に対して何%課税、つまり売上の何割かが地価税として徴収されるという、とんでもないこととなりました。

そこで、従来の旅館としての宿泊業務を止めることにより、住み込み社員の福利厚生施設の一部が風呂・トイレ・調理場・お庭・・・があることにして、営業スペースの低減措置申請を企てた経緯があります。

戦後、旅館として認可された料亭を営む名古屋都心の大手「割烹旅館」がすべて宿泊を廃業することとなり、おもてなし文化の衰退に拍車がかかったようにも思います。しかし、地価税に対しては批判も多く、結局1年のみで実質廃止となりました。今さら宿泊業も再開できず、残ったのは社名「(株)蔦茂旅館」と看板のみとなりました。