料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第80回(2017.11.27)

戦前の蔦茂旅館そして空襲後の再建…建物の記憶より

現在の料亭蔦茂本店の移転計画が発表され、多くのお客様から建造物を惜しむお声をいただき感謝申し上げます。耐震工事や防災、保守管理の面から、現状の建造物での営業は困難と判断した次第ですが、戦後、名古屋では一番初めに開業した旅館でもあり、旧館からの思い出を語っていきたいと思っております。

焦土と化した栄・広小路
焦土と化した栄・広小路

<ウイキペディアより名古屋大空襲の一部を引用>

1945年(昭和20年)1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲が多くなった。3月12日未明、B-29爆撃機200機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、105,093人が罹災した。死者519人、負傷者734人に上り、家屋25,734棟が被災し、市街の5%が焼失したとされる。3月19日午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、151,332人が罹災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が被災した。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。

昭和20年3月、2回にわたる焼夷弾の攻撃で栄地区は全て焦土と化し、蔦茂旅館も庭石と石灯篭を残して全焼したので、なにも記録が残っていません。蟹江町須成の深田本家に叔父・深田次郎(大正11年・八百屋町1-12にて出生)と仲居が昭和初期に中庭で撮影したセピア色の写真などが見つかりました。

戦災で焼ける前の蔦茂旅館:中庭での深田次郎(叔父)と中居達(昭和2年頃)
左:戦災で焼ける前の蔦茂旅館:中庭での深田次郎(叔父)と中居たち(昭和2年頃)
右:創業女将・深田静江(祖母、明治25年生まれ)遊び人の祖父を支え、細腕繁盛記のモデルのような女傑でした。

蔦茂旅館の中庭の石組、そして、青銅の鶴2匹、石細工の親子カエルは、現在も本店に残っています。焼け跡に埋もれた庭石とともに灯篭は窃盗から逃れ、現在も小さな中庭に不釣り合いに置いてあります。また、「清州越し」からの井戸も3本残っていますが、地中10mから汲み上げしている現在稼働中のものは、とうとう南側の一本のみとなってしまいました。

戦災から残った:石灯籠、親子の石カエル、玄関先の井戸
戦災から残った石灯籠、親子の石カエル、玄関先の井戸

昭和21年秋には、戦災復興の一環で宿泊施設が必要との政策により、公的資材の提供を受けていち早く7部屋の蔦茂旅館が開業しました。区画整理事業で私有地の40%を供出。道路幅は5.4mから15mとなり、奥にあった井戸は玄関先に、また敷地が狭くなり庭石を活用するために平らな庭は、瀧が流れる山岳風となりました。

戦後再建した蔦茂旅館 1階平面図 現在地南側と同じ:2階に5客室
戦後再建した蔦茂旅館 1階平面図 現在地南側と同じ:2階に5客室
調理場、風呂場、トイレが多くの面積を占め、料亭飲食主体の旅館でした。

そして、各客室のみならず、お風呂の湯殿・脱衣室、トイレ(各大便所)に電話を常設、申し込んだ市外電話が通じてもいつでも対応できる、とビジネスマンには大好評であったといわれています。

当時の電話は、東京の(現在の)NTTに申し込み、つながるのは30分~60分くらいを要したといわれ、受信対応が必須でした。玄関わきには大型の交換台が設置され、電話交換手は女性の花形の仕事でした。

テレビも、昭和28年の試験放送から全室で視聴できると話題の旅館でした。また、料亭として接待もできると大繁盛しておりました。

戦後は統制があり料亭という商いは認められず、宿泊のついでに仲間と会食…宴会…都合で泊まらずに帰宅?という形態、そして中京連、浪越連、城西連、名妓連と多くの検番から芸妓が派遣され、常駐していました。施設の中で調理場の面積が広いのは、売り上げの多くを料理屋業に依存していたからです。

宴席のお客様がご到着されると、お茶を楽しみ、浴衣・丹前に着替えてひと風呂浴びたあとに芸妓が入り宴会というパターンも多く、イタリア大理石の壁・床、そして槙の風呂おけ、シャワーなどユニークな調度も話題のようでした。

旅館の大風呂
旅館の大風呂

店舗の南西角には調理場の煮方台がありますが、ここでは午前9時ごろから鮪節を引き、一番出汁をとる香りが通りにまで広がります。この香りは住吉の名物フレーバーとして、現在も通りかかる人々に憩いを提供しております。“栄ミナミの3大フレーバー”ともいわれ、ほかに南大津通の「妙香園」さんのほうじ茶を煎ずる匂い、南呉服町の「いば昇」の蒲焼の匂いが名物「街の香り」でした。しかし近年、消防からほうじ茶を路上で煎じてはダメとのことで、チョット寂しくなりました。

昭和25年蔦茂南、右の出窓から出汁の香りがイッパイで現在も住吉名物です。
昭和25年蔦茂南、右の出窓から出汁の香りがイッパイで現在も住吉名物です。

昭和25年ころの蔦茂旅館南角での写真、真ん中の母に抱かれている可愛い男の子が正雄君、一番左が祖母、右から2人目が祖父、後ろの黒塀はヒノキとヒバで現存しています。

なお、料亭蔦茂の歴史と変遷について、くわしく深田正雄HP「住吉の語り部第10回より第15回」(2012年1~6月掲載)をご覧になってください。 http://tsutamo.com/fukada/fukada41.htm