名古屋城のできる前の名古屋台地「那古野」
徳川家康の清州越え以前の名古屋台地がどうなっていたか、あまり知られていません。
慶長以前の那古野村長が保管していた地図が金城温古録にあり、旧町名の会の仲間、六田隆郎氏(通称・熱田三六)が7月22日例会にて発表した研究を紹介しつつ、約500年前の名古屋城周辺から大須地区のロマンの旅を楽しんでまいりましょう。
http://www.fukkatu-nagoya.com/reikai/vol65.html
織田信長が生まれ育ったといわれる現在の二の丸にある那古野城の主・今川佐馬助氏豊について、ウィキペディアには下記のとおり記載されています。
永正12年(1515年)、今川氏親は遠江国で尾張守護・斯波義達と戦い勝利し、斯波氏の威は衰えた。大永年間(1521年-1528年)に氏親は今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き(那古野城、後の名古屋城)、末子の氏豊(官位・佐馬介)を今川那古野氏の養子として入れ城主とした。氏豊は斯波義達の娘を娶り斯波氏と姻戚の関係になった。那古野氏は明徳・応永年間に今川仲秋が尾張守護となった際、尾張に代官として封じられた今川氏の一族(仲秋の庶子とも)で、氏豊はその家の養子となったとされている。享禄5年(1532年)、勝幡城主・織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。
北半分の古図によれば、台地の北端、天神・山神、その西が宗形神社(現・本丸あたり)。1410年建立・甚目寺からの興西寺は城西に移転。911年建立といわれる「天王社」が名古屋城築城にあたり移転予定でしたが、普請奉行・佐久間政実が御籤占いで「不遷」の神託がでたことでそのままの場所に鎮座。明治9年、陸軍鎮台創置にあたり東照宮とともに旧藩校明倫跡、現在の丸の内2丁目に移転。明治32年に「那古野神社」と改称したとのことです。
八王子社・若宮八幡は700年ごろ創建。1532年信秀の城攻めで焼失後、1539年再建。秀吉公から鎮守として社領200石の寄進を受け、家康は1610年築城にあたり現在の栄3丁目に移転しております。
1530年建立の西山浄土宗・誓願寺は築城にあたり久屋に移転。そして戦後、テレビ塔北の丸の内3丁目に移っています。
磯貝邸には家康の四男、清須62万石藩主松平忠吉が鷹狩りの際、立ち寄ったという記録があるそうです。
「小袖懸けの松」の由来 説明版、久屋大通北公園テレビ塔周辺
富士神社と築城石 説明文 名古屋教育委員会
南半分の中心は亀嶽山萬松寺です。1540年、織田信秀が織田家菩提寺として建立。敷地5万5000坪、七堂伽藍の構えで、現在の錦から丸の内2-3丁目地域の里山で泉に恵まれ、家康が幼少時に3年間人質として過ごしたといわれています。
泥江神社は859年創建。小山と林の八丁四方の神領で、万松寺建設や清須越し、戦災もあり現在地の袋町通り北(錦1-7)にて泥江縣神社となりましたが、氏子は広い地域にまたがっています。
小袖懸けの松は名古屋中央大通連合発展会の由来版があり、藤原師長にまつわる恋慕物語と戦国の長者の娘のお話が記されています。名古屋台地の東端に位置し、小袖川の流れは南下して精進川(新堀川)に注いでいると思われます。
富士浅間社は現在の東区の富士神社。教育委員会の説明文によれば、「築城の折、西区浅間町に富士浅間社に遷座の後、明治43年に再建された」と、灯篭の銘に記されています。
名古屋山三郎邸、戦国の森忠政の家臣、山三郎の実家と思われます。山三郎は類稀な美貌の持ち主であり、蒲生氏郷も初見では少女と勘違いし、嫁に取るために身元を調べたという。遊芸に通じた伊達男でもあり数々の浮名を流し、ついには「山三郎と淀殿の子が豊臣秀頼ではないか」という噂まで流れたそうです。後に、美男で人気の傾奇者は、歌舞伎の祖として伝説化しております。最近デビューしたナゴヤカフェ歌舞伎・名古屋山三郎一座はお屋敷近くの円頓寺商店街で頑張っています。
そして、名古屋台地の水源、萬松寺の東西の泉を水源とする紫川は現在の中日病院(標高14m)から南下し、蔦茂界隈の支流の湧き水と合流。標高差9m、流域2.5kmの清流は、住吉から西に白川公園北を流れておりました。そして、伏見通りを南下して若宮通りを西に洲崎神社の南(標高5m)洲崎橋北で堀川へ暗渠として現在も地下に流れております。もう一つの支流は現在の日銀周辺(標高11m)江戸の頃は浄願寺・浄教寺を源とし、南下して商工会議所南(標高7m)の中消防署あたりで本流と合流しております。
尾張名所図会 カラー版、堀川流域の洲崎神社・港と八角堂、右が紫川河口
洲崎神社には、太古この地は入江で洲崎になり、地神(石神)が祀られていた。築城以前は現在の栄一丁目全域が社地であった。築城後、社地には武家屋敷が建てられ、境内に堀川が掘削されるなど大きく縮小したようです。
今でこそ平らな土地ですが、かつては山あり谷ありの自然豊かな栗やドングリ林に恵まれ、藤の花が散った水面が美しく紫の川と名付けたという伝えもあります。
また、六田氏は那古野村の研究調査をその後も進め、年初には新しい成果の発表をいただけるとのこと、楽しみにしております。