料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第78回(2017.9.26)

アメリカ村建設で幻となった白川町

地図1:宝暦12年名護屋路見大図より地図2:白川町・昭和34年左側はアメリカ村
地図左:宝暦12年名護屋路見大図より 地図右:白川町・昭和34年 左側はアメリカ村

―ウィキペディアによれば―
白川町は「付近を流れていた紫川に由来する。紫川は清流に戻ることを願い、明治に白川と名称を改めている。前身である光明寺町はその名の通り、同名の寺院に由来する町人町であった。また、石切町は南寺町とも称される地域であり、竹藪が開発され元治元年(1658年)に町家となった町であった。明治4年光明寺町および石切町を併せ、愛知郡白川町として成立」と記されています。

江戸時代初期には、光明寺、塔頭・十王堂、願故院、摂取院、養林寺、壽経寺、誓願寺、西光院・・・と寺町を形成し本町との間・西側に町衆が住んだように思われます。

紫川に沿った「十王堂」には閻魔大王などが祀られ、参拝や地獄絵解きに多くの町人が集まったといわれています。(地図左:宝暦12年名護屋路見大図より)

白川公園北東角「石のまちかど」光明寺・塔頭十王堂跡地、北には紫川の流れ
白川公園北東角「石のまちかど」光明寺・塔頭十王堂跡地、北には紫川の流れ

現在、同地は石切町にちなんでか、「石のまちかど」白川公園のモニュメントとなっています。

名古屋市は、第2次大戦の空襲で焼け野原となった白川町の各寺院に協力を求め、墓地は平和公園へ、本堂庫裏は市内か周辺へ移転させ、昭和21年に米国進駐軍将校の家族住居『アメリカ村』を建設、同町のほとんどが昭和33年末まで接収されることとなりました。返還後、白川通り南は「白川公園」、北地区は民間の旧地主に戻りましたが、都築紡績㈱などの大手企業による開発が進展してまいりました。

和楽器店・岩田家全景、唯一の木道店舗
和楽器店・岩田家全景、唯一の木道店舗(左) ショーウィンドウには三味線・尺八が並ぶ

戦後の国勢調査の人口推移表を見ると、同町は昭和25年ゼロ人、アメリカ村米軍家族191人(実際は132世帯といわれています)、昭和30年には3-4丁目を中心に50人、復帰後、昭和40年には58人の住民登録がされていました。そして、昭和42年に新住居表示のもと、すべて栄2丁目となり白川町は消滅しております。

返還後の白川町筋の変遷を三蔵通りから南へご紹介してまいりましょう。角の脇田㈱、小島専蔵商店は今も元気に営業、名門㈱森本商店は郊外に移転。なかでも岩田和楽器店は尺八、三味線、箏などの専門店として好事家の贔屓があるようで、唯一の木造店舗です。

白川通り角:左・伊藤内科、右・服部㈱元江口さん跡地
白川通り角:左・伊藤内科、右・服部㈱元江口さん跡地

角には服部㈱があります。創業明治35年、歌舞伎幕の製作から始まり、国旗、のぼり、トリバナの扱いでは老舗、日の丸国旗の元祖ともいわれています。おむかえの伊藤内科は伊藤清次先生がお住まいにもなり、地元の町医者として私の両親もお世話になっていましたが、いつぞや診療所も閉鎖され不便を感じております。

岩田ビルはマドラス・岩田工機・湯ノ島館・岩田産業を経営する岩田グループの本拠。 他は全てマンション・学校・診療所や駐車場などとなりましたが、大橋大吉さんの裏庭の巨木が本町衆の大店の面影を残しています。また、西脇羅紗店のご邸宅もコインパーキングとなってしまいました。

大橋大吉商店裏庭と倉庫・コインパーキング
大橋大吉商店裏庭と倉庫・コインパーキング
高取さん宅木造住居、奥は人形の守田さん通用口
高取さん宅木造住居、奥は人形の守田さん通用口

白川町4丁目も様変わり、小間物卸の㈱味岡屋さんはご長男の長崎守利氏が宝グループ会長でもあり、宝不動産の開発による高級賃貸マンション「ルシェット白川公園」が工事進捗中。唯一、人形の守田さんの倉庫が現存され、新日本教文さんも老舗となりました。南の花木さんは、本町通りが宝石卸店舗で、公園側がご自宅となっており元名古屋市議会議長斉藤実氏夫人のご実家です。同様に、高取羅紗店のご自宅が現存していますが、今は廃屋のようになっているのが寂しい限りです。

現在、元白川町は緑いっぱいの白川公園の魅力と都心回帰ブームで、大手の袋物問屋の跡地などを活用して4つの高級マンションの建設が進んでいます。カバンのマツモトさん跡には「プレサンスロジェ白川公園」42戸が完成し、鞄卸の㈱エリットさん跡地「緑と暮らす、栄・私邸」The Gran Alt Sakae(95戸)は来年2月竣工予定です。販売も好調で、坪単価300万円を超える価格で完売間近と聞いています。

河村市長と深田正雄対談記事
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平成26年3月25日中日新聞特集:河村たかし市長と小生の対談「さらなる発展を遂げる栄エリア。歩いて楽しく、住みやすい街へ。」の記事をご紹介しますので、ご興味あればご一読いただければ大変うれしく思います。(画像をクリックすると別画面で記事をご覧いただけます)

昭和25年、人口ゼロ人の焼け野原だった白川公園周辺は、時を経て、都心のオアシスを求めて多くの人が集まる、オシャレで便利な新しい居住地区となりつつあります。歩いても住んでも楽しい栄ミナミの町づくりの成果ともいえるでしょう。