料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第70回(2017.1.23)

アメリカ村返還と南伏見町西

昭和21年8月に白川町に進駐軍将校住宅130戸の建設が始まりました。「アメリカ村」と呼ばれたこの地域は、生活苦にあえぐ日本人には全くの別天地でありました。

「アメリカ村」跡地で乗馬遊びの正雄君 S34年頃 返還されたアメリカンスクール建物前にて

幼少の正雄君は、ここが「アメリカ合衆国」と信じており、大きくなるまで勘違いしていました。進駐軍の接収から、昭和31年10月名古屋観光ホテル返還に続き、昭和33年6月30日にはアメリカ村も地元地権者に戻されることとなりました。南半分は白川公園として開発されるとのことでしたが、当分は荒地となり、栄小学校への通学も同村を迂回してタブの木まで行かずに、敷地内を探検しながら、直接伏見通りを越える楽しい毎日となりました。広大な空き地では乗馬の練習をしたり(写真1 昭和34年頃)、廃墟となったアメリカンスクールへ侵入(写真2 昭和34年頃。右端の松岡久晴さん提供)、そして、かつてお寺の土葬墓地であったところで遺骨や埋葬品を掘り返したり、終戦直後から手がついていない残留品発掘、防空壕を覗きながら宝探し、子供の遊び場として別天地となりました。でも、とうとう小判や金貨を見つけることができませんでした。

南伏見町1-2丁目 昭和34年頃
地図1:南伏見町1-2丁目 昭和34年頃
(株)北見式賃金研究所 北見昌朗氏提供
ピンクマークが紹介した建物・敷地

そして、都市整備計画で5.4mの小路から拡幅された50m幅の伏見大通りを越えた南伏見町西側は、昭和22年に全国に先駆けて復興した御園座を中心とする劇場門前ストリートです。北見昌朗氏の昭和34年頃の地図を用いて、現存するお店を北角から紹介させていただきます。(地図1)

明治40年創業、日本を代表する名門老舗酒場「大甚本店」。広小路伏見の交差点の脇にあるお店で、名店の噂は全国に轟き、名古屋に来たら一度は立ち寄ってみたい“憧れの酒場”。そして、中店は御園座北の御園銀座入口にあり、小学校の同級生・山田陽子ちゃんが2階に住んでいました(写真3)。お酒は賀茂鶴・菊正宗、ビールはキリンラガー、セルフサービススタイルの気軽な居酒屋さんです。宅見時計店さんも戦前からの老舗、空襲で丸焼けとなりましたが、店の奥にそびえる金庫は焼け残り、現役で活躍しています。

現在の御園銀座入口:大甚中店と工事の進捗する御園座ビル
写真3:現在の御園銀座入口:大甚中店と工事の進捗する御園座ビル

中消防署南、新日本法規出版(株)さんは、昭和25年に岐阜から現在地に移転、加除式法規図書の発行・法律書では全国一のシェアと聞いています(写真4) 。創業者の河合さんは下呂・竹原地区のご出身で料亭つたもの上顧客、そして、私の父の渓流釣りの師匠でもありました。

昭和25年ごろ移転した新日本法規出版(同社HPより)写真4:昭和25年ごろ移転した新日本法規出版(同社HPより)

平成9年、新栄2丁目に移転した名古屋音楽学校は昭和23年南伏見2丁目に設立。併設された名古屋合唱団幼稚園は音楽を幼児教育に取り入れ、戦後のベビーブームで多くの子供たちがあこがれのモダンな校舎に入園しました。合唱ホール、音楽教室とともに地域の文化振興に貢献されましたが、現在跡地は5層の立体自走式駐車場となっています。(写真5)

名古屋合唱団跡地、現在は自走式駐車場ビル
写真5:名古屋合唱団跡地、現在は自走式駐車場ビル

思い出深いのは、同級生・美人でしっかり者の左右木忍ちゃんの住んでいた(株)愛知看板製作所。明治20年創業の最も歴史ある看板屋さんで、25年ほど前に名東区に移転、スポーツセンターなどの経営を経て、現在も新栄・雲竜フレックスビルにて忍社長の陣頭指揮のもと新業態でチャレンジされているようです。(写真6)

昭和18年ごろの愛知看板製作所
写真6:昭和18年ごろの愛知看板製作所(同社HPより)