料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第69回(2016.12.19)

御園タブノキと南伏見町角

『尾張誌』は、伏見町の町名由来を「もと山城の国伏見の商人が、名古屋に移って住んでいたので、このように名づけた」と記している。その人は伏見から名古屋開府早々に移ってきた伏見屋六兵衛といい、魚の棚筋の東南の角に屋敷を構えていた町人とのことです。

江戸時代、広小路と本町通を除く碁盤割の道路幅は「3間」だったとのことですから、約5.4mでした。道路幅というより「建物同士の間隔」といった方がわかりやすいかもしれません。戦後の復興都市開発で現在、伏見通は50m、桜通は40m、それ以外の碁盤割(錦・丸の内)の道路は15m以上ですから、当時の町の様子を想像することは容易ではありません。

伏見通り2戦前日銀前
写真1: 「名古屋今昔写真集」より
昭和11年頃の桜通り・伏見交差点 現日銀前

「名古屋今昔写真集」から、昭和11年ごろの現在の日銀名古屋支店前桜通りから北の3間幅横町の写真を紹介します(写真1)。東南角右手前の柵は「菅原尋常小学校」、右手向こうの白い土塀は「浄願寺」と思われます。(熱田人モードWEBより)

昭和34年ごろ正雄君の栄小学校通学途中、タブの木からの思い出を紹介していきましょう。

写真2:タブノキと説明看板、伏見・入江町交差点
写真2:タブノキと説明看板、伏見・入江町交差点

アメリカ村北側の入江町通りを西に、伏見通りの角にでっかいタブの木が大昔からありました。タブの木の根元に小さな立て看板には、次のように記されています。(写真2)

「御園のタブノキ」
樹種名 タブノキ(クスノキ科)
形質分類 常緑広葉樹
推定樹齢 約250年(江戸時代中期頃からのもの)
樹木形状 樹高 10.0m
樹周 3.8m
枝張 東西12m 南北15m
タブノキの自然樹形は直幹で整った球状形で樹高15~20mが一般的であるが、このタブノキは地上4mの所で二幹に分かれ、それぞれ枝葉をひろげ扁平であり横広型に変形し、樹高も10mである。
この姿から、風害などの原因により折損し再生した樹形であり、水平方向へ限界まで伸張した枝が自ら生育環境に適応しているものと推定される。

名古屋城下図・明治元年高力全休庵作図、南伏見の中級武家宅群
地図1:名古屋城下図・明治元年高力全休庵作図、南伏見の中級武家宅群
●がタブノキ、南北に走る青線が紫川流域
戦後、3間の伏見町筋が50mに拡幅・江原家跡地は大半が道路に

江戸末期の地図によると紫川のほとりにあった中級武士「江原鍋吉・茂平」宅の一角の大樹で、昔から白蛇が宿る神木だとして船頭たちの守り神として崇められてきました。
(地図1・名古屋城下図・明治元年高力全休庵作図)

第二次世界大戦の空襲で焼け焦げて無残な枯れ木のようになったが、奇跡的に数年たって芽を吹き出し、今も注連縄を飾り信仰心を受け継いでいます。

僕らにとっては、アメリカ村との「国境」角地にあるタブノキは栄小学校への中間点、余りの大きさに圧倒され気味悪くも感じ、よじ登る子供はいませんでした。6年間探したご神体・白蛇はとうとう見つかりませんでした。

北角・南伏見町1-20は松岡久晴君(ひさはる…ニックネームは猿)の自宅、父上の松岡久三郎氏はPTA副会長を務められ街の有力者、姉上の三恵さんは昭和12年生まれで幼い頃からピアノを習い、NHKで演奏するほどの腕前。空襲で自宅は全焼しピアノは失いましたが、放課後に栄小のピアノで練習を続けたとのこと。

昭和27年桐朋学園高校音楽科第1期生入学、高3の時に「日本音楽コンクール」第1位獲得、ヤマハ社員の石井宏さんが直訴し、川上源一社長よりアップライトピアノを無償貸与されたとのこと。下校時には久晴君宅で魂揺さぶる音色を鑑賞させていただきました。

その後、フランスへ留学され研鑽、帰国後は我が国の花形ピアニストとして活躍され、後進のピアノ教育に邁進されたとうかがっています。昭和38年には石井さんと結婚されました。音楽評論家として石井さんが遺品となるコンサート録音の音源を見つけ、秋に初の「松岡三恵リサイタル」CDを制作されました。昨年78歳で亡くなった奥さまへの捧げ物となりました。久晴君はバイオリンを嗜み、仲間とオーケストラを編成して活躍とのことを風の便りに聞いています。

栄小の美人教師・倉知亮子先生と今夏お会いしたら、懐かしい思い出をお話しいただきました。生徒の下校に同伴して伏見通りを越えると米軍兵に「Beautiful Teacher!!!」とよく追っかけられ、子供たちと松岡君宅に避難したのだそうです。

現在の伏見・入江町交差点:現在の角地・Hair Cut Quartet と会計事務所ビル
写真3:現在の伏見・入江町交差点:現在の角地・Hair Cut Quartet
と会計事務所ビル 松岡宅とエスキモー冷機跡

北隣は古田明弘君の「エスキモー冷機(株)」。進駐軍への調達用なのかデッカイ冷蔵庫やエアコン機械が展示され、テレビの人気番組「アイラブ・ルーシー」のような米国家庭の一端をTV画面ではなく実際に拝見しました。(写真3:現在の角地・Hair Cut Quartet と会計事務所ビル)

昭和34年ごろ伏見通り
写真4:昭和34年ごろ伏見通り 左上●がタブノキ、右がアメリカ村
「昭和の名古屋・平成の名古屋」航空写真集より

タブノキを南に100m横断歩道を渡り西側へ通学、当時は車の往来も多くなく舗装されていない緑地帯は砂埃もいっぱい、祖父・良矩の乗馬の練習場でもありました。(写真4:伏見通りとアメリカ村)

その後、交通量も増え、通学時に児童が交通事故で亡くなる惨事があり、昭和39年に名古屋で初めての歩道橋が完成しました。

次回は、御園座のある南伏見町西側を紹介してまいります。