常(いつ)もにぎあふ広小路 日もくれかかる入江町
平成20年、名古屋市中区は区政100周年を祝い、記念事業の一つとして、区役所前公開空地に旧町を解説する掲示板「歴史の十字路まちしるべ」を設置しました。銘板には「花の名古屋の碁盤割」の歌詞を掲載、オープンセレモニーでは平安桜による演奏、そして、各町内に旧町名と由来表示看板が建てられました。同曲は江南に伝わる『七墓御詠歌』の一つで、京都のわらべ歌と同じように清州越しの町名を順に詠みこまれています。(写真1)
昨年の「栄ミナミ盆踊り@GOGO」で平安桜さん演奏、日本の盆踊りの神様・日本民踊研究会会長可知豊親氏の振り付けで発表、大好評を博しました。今夏は盆踊り用CDが発売され、中区各町内の盆踊り曲の定番となりつつあります。 (写真2)
実は銘版にはない碁盤割の外・広小路通り南の東西の筋についても入江町、三蔵町、花屋町が御詠歌に読まれています。三蔵通りについてはこれまで街づくり活性化の事例として、戦後の面影や今後の開発プランなどを紹介してまいりました。
今回は、「日もくれかかる入江町」について由来や戦後の思い出をお話ししてまいりましょう。
深田良矩爺ちゃん曰く「堀川沿い三蔵にあった21の藩倉に運ぶ小さな運河を掘削、艀が倉廻りに着岸できるようにした。名古屋温泉パレスの東側にある石垣は入江の護岸だぞ。入江町の名は堀川沿いからの町名だ!」と説明??を受けました。しかし、古地図から見ると広小路南の入江筋は伏見通り以西には繋がっておらず、疑問をいだいておりました。
この謎は平成18年堀川文化の会刊「花の名古屋の碁盤割」p.34にて解決。以下引用。
町名の由来については2説ある。一つは同筋に宗内という何人もの手下を持つ親分がいた。その親分の姓が入江といったので、入江町とした。宝永5年のことである。
また、『尾張名陽図会』によれば、むかし紫川という大河があった。その川の入江の跡ゆえにこのように名付けたという。
そして、広小路より入江町まで、紫川の岸辺に、藤の花の咲き乱れる野原があり、そこを藤野と呼んだ。紫川、藤野というロマンティックな地も、今はビルに囲まれた繁華街となってしまいました。
戦前は住吉・富沢町の料亭街を支える入江町には検番(芸妓の取次所)が3軒あり、置屋がならび夜ともなれば大変な賑わいで、名古屋の夜の顔というべき町でありました。戦後になっても、入江町は夜の賑わいのメッカ。芸者を呼んで遊ぶ待合・料亭から何軒ものマンモスキャバレーが通りの両側で繁盛しており、場内はダンス音楽に合わせて踊り興じる人々で満ち溢れていました。アメリカ村のゲート前、進駐軍の将校でにぎわった「レストランシアターミカド」「アルサロニューヨーク、女王蜂」、本町通りから西に向かって入江筋北には「サロン赤い靴」「キャバレー女の城」。南には「バーフロリダ」「クラブシスコ」「キャバレー明星、サロン・ルナパーク」など大型のキャバレーが並んでいました。
写真3:明星ビル・現在は居酒屋などテナントビル、
昭和50年ごろまで1階キャバレー明星、2階は
ルナパークとして営業されていました。奥は、ガー
ランドホテル。
“日も暮れかかる入江町”はダンサーの脂粉も艶めかしく、女給さんたちのドギツイ化粧の香りが子供心に懐かしい思い出となっています。そして、進駐軍の兵士も日本のオジサンも、ホステスと一緒にダンスやアルコールに興じている日米文化の融合地域といえました。
今でも現存している明星ビルは改装されIDEXグループ運営のディスコ、「やぎや」「居酒屋畳々」を経て、現在は「春夏秋燈」がテナントとして入居しています。明星ビル看板も4階に残っており、かつてから南側グランドビルと地下一階で三蔵通りに抜ける「First Street」も昔のままです。オーナーの佐枝さんファミリーは隣接する名古屋ガーランドホテルも経営されています。 (写真3)
北見さんよりいただいたS35年版住宅地図より当時、アメリカ村北の入江筋・住吉から栄小学校への正雄君の通学路の記憶をたどっていきたいと思います。(地図・入江町界隈参照)
アメリカ村北側には旅館が多く、みその旅館は野球球団巨人の常宿として話題で、露橋の中日球場に弁当屋を出店されていました。
伏見角の松岡久晴君は栄小学校の同級で母上がピアノの先生、父上・久三郎氏はPTA副会長で、商店併設住居ばかりの通学路では、とても文化的な珍しい一般家庭でした。
北のエスキモー冷機(株)は古田明良君のお店、2階が住まいで米軍家庭や施設に冷蔵庫・空調設備を納入されていたようです。
京都清水焼を中心に卸、美濃には自家工場を運営される陶器業務用卸の山城屋さん、社長・楠仙三氏は東京大学経済学部卒で、会社内では天皇として君臨し口をはさめる部下は皆無であったといわれています。全国各地の高級旅館・料亭との取引が中心で、蔦茂の什器の大半がお世話になっています。名古屋ロータリークラブで活躍され、昭和40年代にはいち早くニューヨークに和食堂「Yamashiroya」を出店されました。長男の楠吉邦現社長は京都大学、ご次男の吉史副社長は慶応大学と素晴らしいエリートファミリーと評判です。
写真4:八木久ビル、オシャレな飲食テナント・
クリニックが入居。屋上に創業1872年と掲示
八百屋町の老舗繊維卸「八木久」さんのお嬢さんは加藤真由美ちゃん。同級生で可愛くしっかり者の学級委員、とても利発で横浜フェリス女学院に進学されたときいていますが、お元気でしょうか? 現在はオシャレな飲食テナントビルですが、塔屋には「SINCE1872」 と創業年が銘板として掲示されています。 (写真4)