新発見!名駅と栄を結ぶ・歩いて楽しい三蔵通り
最近、世界中でLRT(ライトレールトレイン)と呼ばれるお洒落な路面電車の復活があいついでいます。名古屋でも名古屋駅と栄を結ぶ三蔵通りが歩行者目線で街並みを楽しめる可能性が高く、道幅もトラム導入には最適との議論が街づくり仲間でスタートしています。
一般車両の通行を制限したバリアフリーの電車導入は都心部の新しい移動手段として脚光を浴び、リニア新幹線開通時には三蔵トラムへの夢も膨らんでまいります。
この三蔵通りの大きな動きと歴史をご紹介してまいりましょう。
写真1:天王崎橋より納屋橋を望む・将来は三蔵通のセンター:四季桜並木、船着場、
新たな都心街区の価値創出する納屋橋東再開発工事進捗中。
現在は直線で久屋大通りから笹島まで東西の道幅20メートルで、伏見通り西では大規模再開発が多く一光石油跡地、岡崎信用金庫本部ビル、御園座プロジェクト、そして、納屋橋東地区再開発事業(写真1)が堀川天王崎橋まで続き、堀川からは劇団四季など名駅南再開発、そして、名鉄・日生グループの笹島プラン、「ささしまライブ24」へと大きな動線となりつつあります。名駅南地区まちづくり研究会も活発に啓蒙活動を実施され将来が楽しみになってまいりました。
そして、名駅と栄地区の民間メンバーや大学教員らで作る「NAGOYA創造協議会」が発足しております。2027年のリニア中央新幹線開業を見据え、名古屋駅周辺と栄地区での連携したまちづくりを目指す「NAGOYAクリエイティブフォーラム2015」が11月14日名古屋工業大で開催され、約200人が参加。両地区を直線で結ぶ「三蔵通」を「歩いて楽しい街路空間」に創造することで、両地区の魅力を一体的に高めることを提案しています。
三蔵町の由来や遺跡については、住吉の語り部シリーズ第52回に記させていただいておりますので、ご参照ください。
江戸時代の三蔵通は竪三蔵通と住吉町までの8ブロックで、蔵から本町までは中級武士の住居、本町からは遊興の町と南寺町の境となっていました。広小路水路・紫川の流れと紫式部の石碑のあった伝光院にご注目ください。
宝暦12年名護屋路見大図より(1762年)
明治時代には、尾張藩の米蔵は牢屋となり、南側に三蔵通そして天王崎橋も架かり江川まで伸長しております。町名は横三ツ蔵町1丁目から5丁目と表記されています。
名古屋枢要地図より 大正3年刊(1914年)
戦後は戦災で焼け野原となったのを契機に市街地の大規模都市計画が実施され、三蔵通は久屋大通から笹島に抜ける東西の直線道路として整備される予定でした。しかし、GHQ在日米軍の幹部将校家族住宅として昭和21年より昭和33年まで徴用されました。返還後は南に白川公園、北側は民間に返還され、栄2丁目として開発が進み、やっと、栄から笹島への直線道路として発展しつつあります。
写真2:南大津通り交差点:開発中の三井不動産商業ビルと
大和屋本店、電通ビル跡はサウスヒルズビル、富士フィルムは
愛知銀行に変遷。
昭和35年住宅地図から見ると、栄3丁目三蔵通で現存する同じ業態店は大津通り交差点(写真2)から大和屋漬物店、料亭つたも、菅井新聞店、池田宝石店、服飾附属(株)脇田の5店舗のみとなりました。日本信販名古屋支店は創業者山田光成翁のご親族が辰晃ビル、八百屋の山健さん、旅館楽々さんはインペリアルプラザビルとなり不動産業で頑張っています。
昭和35年住宅地図協会 発行
僕にとって懐かしいのは電通ビル一階のパーラー・ミルクセーキの生卵イッパイの味。
西隣富士フィルム名古屋営業所の2階には中部学生写真連盟の事務所があり、高校1年から委員長と務める正雄君は毎日学校にも行かず、会員増強、雑誌編集、撮影会、セミナー、交流イベント、寄付集めに奔走していました。1年間の在任中に成績が急降下した思い出があります。
角の喫茶シーゼン(べんてん)で、クラブ活動と称してタムロしていた不良高校生でした。