料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第52回(2015.7.21)

名古屋最古の竪三蔵通 遺跡と竪三ツ蔵町・横三ツ蔵町

中区の主な遺跡分布図
写真:1 中区の主な遺跡分布図
新修名古屋市史第1巻 別冊

紫川の谷沿い北側の台地に、数万年前の石器時代より人類がいたようで、名古屋最古の遺跡は栄小学校の東西にあった「竪三蔵通遺跡」です。旧石器時代3万年前のナイフ型石器の出土を初め、近世にわたる複合遺跡といわれています。

農耕生活以前、清流の水をもとめて獲物が到来、谷を見渡せるこの周辺は、見晴らしの良い台地で絶好の狩猟ポイントとなったと思われます。そして、紫川の流域沿いに南の若宮通り沿いに縄文土器が発掘された「旧紫川遺跡」、科学館周辺白川通り南には古墳時代の「白川公園遺跡」が確認されています。(写真1)

清州越しの「三蔵」の名称について、名古屋堀川ライオンズクラブさんの「CD堀川ミュージアム」から転載・資料集を抜粋引用させていただきます。

ここに尾張藩の蔵がつくられたのは、名古屋城がつくられたのと同じころです。この場所につくったのは、堀川を使って船でたくさんの米を一度に運べるからです。
清洲には福島正則の築城時に建てた、長さ55mもの大きな蔵が3つあり、「三蔵(みつくら)」とよばれていました。この蔵を納屋橋のところまで運んできて、その他にもたくさんの新しい蔵を建てました。たくさんの蔵があったのですが、清洲のころの名前のまま名古屋でも「三蔵」とよばれました。

三蔵(広井貢納蔵屋)配置図・「天明年間名古屋中支配分図」より
写真:2 三蔵(広井貢納蔵屋)配置図・
「天明年間名古屋中支配分図」より

今でも、天王崎橋を東西に通る道が「三蔵通」朝日新聞社西側の南北の道が「竪三蔵通」という名前なのは、昔、尾張藩の蔵があったころのなごりです。
約250年もの長いあいだ、藩の蔵がおかれていましたが、明治になると税金はお金ではらうようになり米を保管する蔵はいらなくなりました。このため、明治6年(1873)に、それまで広小路本町の東南角(現東急イン栄)にあった牢屋がこの場所に移されて、懲役場と名前も変えられました。
その後、明治39年(1906)に設立された東海倉庫株式会社が、堀川を利用して船で物を運ぶのに便利なこの土地を買い取り、倉庫として使うようになりました。
尾張藩は69万石で、全国でも数少ない非常に大きな藩でした。このため、年貢としておさめられる米もたくさんになります。

蔵のたっている土地は、南北が約260m、東西が北側(広小路側)は約70m、南側は約110mという広い土地で、まわりは高い塀でかこまれていました。中には26の蔵があり、その出入り口はあわせて83か所もありました。蔵には7万3000石の米を保管できたそうですが、これは米を入れる俵の数では約18万個、重さでは1万トンにもなります。
元和5年(1619)からは、蔵の管理をする御蔵奉行(おくらぶぎょう)がおかれていました。(写真2)
以上転載・一部加筆

数多くの蔵に小舟で米俵を輸送するために、三蔵通りと広小路の間に水路が掘られ、「入江町」通りの名称となりました。また、当時の石垣跡が劇団四季の周辺で見つけることもできます。懲役場は明治30年愛知郡千種村(現・名古屋市昭和区吹上2丁目、吹上公園付近)に移転、名古屋刑務所に改称、昭和40年若宮大通(100m道路)の建設に伴い、現在地みよし市ひばりヶ丘に移転しています。

戦災で焼失した跡地は、昭和30年代に名古屋温泉パレスとなり千人規模の大型ダンスホール、プール、アイススケートリンクに進駐軍のかっこいいアメリカ人が地元民と親しく一緒に過ごしていました。南には名古屋自動車学校という教習所が開業。その後、ホテルニュージャパン火災で話題となった横井英樹氏のトーヨーボールがオープンし、ボウリングブームの先駆けとなったようです。しかし、堀川沿いの東陽倉庫南には薄暗くなると多くのいかがわしい女性がドンドン出現して物議を醸しだしていました。ヤクザ風のお兄ちゃんが大きな笊籠を差し出しながら、ご商売で客待ちの方々から所場代を投げ銭の如く徴収している姿が思い出されます。

そして、東海倉庫㈱は名古屋倉庫㈱と合併、東陽倉庫㈱となり現在、この地、納屋橋東地区市街地再開発組合のリーダーとして新しい街づくり企画をスタートしています。正雄君の東海中学の同級生山岸博之さんが理事長として、平成3年の再開発準備組合の設立から23年、長い苦難の末、平成29年6月の工事完成を目指して、UR機構のコ-ディネイトのもと“納屋橋HUBグループ”と一体となり事業を推進していくとのこと。堀川の水辺空間を生かし、名駅や栄と差別化された都市づくりが楽しみです。

栄小学校の帰途は横三蔵通りの同級生中島次郎君の酒屋中島屋本店でラムネをいただき、野垣肛門病院・秀才の敬君のお母さんにお世話になりました。お隣は名古屋一のキャバレー「白菊」で、夕刻には派手な“夜の蝶”のお姉さんがいっぱいでした。救急外来の多い山崎病院さん周辺では救急車のサイレンが毎日鳴っていたようです。角のゼネラルガソリンスタンドは三油商会さんから一光グループに経営がかわり、現在は再開発のためか空き地となっています。

杉の湯(現在は休業中)、奥は愛知県味噌醤油会館・横三蔵1丁目
写真:3 杉の湯(現在は休業中)、奥は愛知県味噌醤油会館・横三蔵1丁目

北見地図から横三つ蔵で同じ場所に現存するのは一丁目界隈では、オート三輪のサカイオートサービス、簾・提灯など雑貨屋の伊藤繁治郎商店、愛知県味噌醤油会館、最近まで銭湯「杉の湯」の看板があり、並びには手作りオーダーと舶来超高級靴の明治屋靴商店が頑張っています(写真3)。そして、梅本㈱さんは尾張藩御用達商人で中庭には素晴らしい日本庭園や水琴窟があり、当主磯村義典さんは一昨年まで栄学区区政協力委員長として地元町内活動にご尽力されていました。伏見通り沿い「旅館秋月」は13階建て秋月ビル&ハイツとなっています。

写真4:北見地図 昭和35年頃住宅地図より
写真4:北見地図 昭和35年頃住宅地図より