名古屋の名門・栄小学校
昭和30年、桜満開の栄小学校に正雄君はピカピカの1年生として入学。住吉町と南呉服町の分団で、なんとアメリカ村北を回り伏見通りを越え、堀川近くまで約30分1.5kmとは、6歳の児童にとっては長い登校の旅?でビックリしていました。でも、もっと遠くからは南久屋大通り東側より約50分かけて、また、生徒の1割以上が寄留登録で遠隔地からバスや市電を利用して名門「栄小学校」に通学しておりました。
写真:1 栄小学校の変遷・
中区80年史より
実は、栄小の前身、中ノ町国民学校は大正末期の鉄筋コンクリート建設で、戦災にあっても躯体と地下の防空壕が残りました。現ナディアパーク近隣にあった白川国民学校、及び、現パルコ南館位置の南久屋国民学校は戦災で消滅しました。唯一消失を逃れた中ノ町尋常小学校校舎に合併となり昭和21年に栄小学校に名称変更。栄1-5丁目地域が学区民となり、戦後ベビーブームの栄地区一帯の子供達の児童教育を支えました。入学時1年3組は磯部了先生の担任で55名、学年は5組あって超過密マンモス小学校といえました。明治5年の名古屋第13義校開校(後の白川尋常小学校)から今年で143年を迎えております。
通学の際、子供たちには、南北に学区を縦断するアメリカ村を越えることがとっても難儀でした。せめて朝の一定時刻にアメリカ村敷地内を通過したいという要請のため、PTAから米軍名古屋基地司令部宛に陳情書が昭和27年頃から何度も出されていました。対象の子供は約700名でありましたが、同村は軍人将校家族の住居が中心で軍事上の課題は少ないにもかかわらず、治外法権から一度も許可はされませんでした。でも、僕らは勝手にゲートから侵入して、アメリカの子供たちと一緒に遊んだ楽しい記憶が残っています。昭和33年、同村の撤退計画決定があった頃は正式な交流がスタート、相互の授業参観などもあり、子供達の融和がすすんでいました。
校門を入ると正面には二宮尊徳石像、右の木造建物には「こづかいさん」兼子一家がお住まいで、大きなヤカンで給食時にはお茶をいただいたり、ウサギを飼っていただいたりお世話になりました。奥様の名前が兼子さんで、氏名が兼子兼子さんで記憶に残っています。
通学時の交通事情は、車優先時代の頃で、けっこう交通事故があったようです。なかでも国道19号線伏見通りはトラックなど重量車両が多く、とても危険で死亡事故もあったため、地元の念願であった名古屋市第1号の歩道橋が白川通り南に昭和39年に完成しております。
なんと言っても思い出は昭和34年9月の「伊勢湾台風」です。周辺には被害が少なかったのですが、被災した港区南陽小学校(床上浸水2メートル、校舎倒壊)の生徒父兄の避難所となり、4階の雨天体操場には100名近い家族が生活されていました。正雄君の5年3組にも6、7名の編入があり、年度末まで一緒に暮らしておりました。
写真:2 昭和35年音楽部七夕祭・講堂にて
当時、栄小学校ではクラブ活動が盛んで、土曜日の午後はさまざまなサークルが活動しておりました。
正雄君は女の子のいっぱいいる音楽部に所属。仲ノ町公園東・御園市場で1つ5円のコロッケや惣菜を購入して土曜の友達とのランチは興奮のひとときでした。
仲ノ町公園では野球部の練習が活発で、僕らの卒業した翌年には名古屋市少年野球大会で全市優勝を達成しております。その後、ショートの平野謙(昭和30年生)は中日ドラゴンズで大活躍しております。スポーツ選手といえば、昨年2月3日朝、女子フィギュア日本代表・村上佳菜子選手の母校の栄小学校体育館で行われた壮行会に僕も激励にいきました。そのとき、全校生徒が集合でしたが約200名、僕らの頃の一学年人数より少ないのにチョット寂しさを感じた次第です。
こども遊びでは、缶蹴り、かくれんぼ、馬跳び、書き石など近所の子供と楽しんでいましたが、いつの日か「ホッピング」「フラフープ」などの一人遊びの遊具がはやり、個人競争していました。また、クロンボ人形「だっこちゃん」も登場、週刊誌・少年サンデーが発刊、オマケ付き「グリコ」を購入して野球カードを集め野球用具を揃えていた懐かしい思い出がいっぱいです。
写真:3 イチョウと旧校舎・4階が雨天体操場・
昭和36年卒業アルバムより
校庭の大銀杏が今も児童をやさしく見守っていますが、大正時代建造スチーム暖房付きの鉄筋校舎は昭和57年に取り壊され、翌年に現建物が完成しております。