料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第48回(2015.3.26)

ものづくりの起点・矢場町

矢場町地域は荘園時代、湧水に恵まれた小林村の北側に位置し、1548年牧長義の居城として中心に小林城が築城された。小林城は1570年に廃され剣術指南・柳生利厳の屋敷となり、1701年に清浄寺となって現在は矢場地蔵として親しまれています。

矢場町の名は、1669年地域内に現存する三輪神社に弓矢場が作られたことに由来するようです。(写真1)

宝暦時代の矢場町地図
写真:1 宝暦時代の矢場町地図 (北見氏作成)
中央南に三輪神社・弓矢場、北は下級武士の屋敷

江戸期の矢場町に下級武士達が軒を並べて居住し、お城勤めより「職芸」に熱心で鍛冶職、からくり、建具、和時計、家具、武具などの「ものづくり」や寺子屋の教師、武芸師範など副収入もあり優雅な生活を営んでいたようです。

武芸指南も活発で、稽古場として剣術の柳生流の道場「清祥寺」、そして「三輪神社」には弓道の通し矢道場(現在の矢場とん本店周辺)は京都三十三間堂並みであったといわれています。

和時計の津田助左衛門は、家康お抱えとなった後、清須に移り、その後彼の子孫も代々尾張藩の御用時計師として仕え、正式に尾張藩の御時計師・鍛冶職頭となり矢場界隈で仕事をしていたといわれています。「尾張藩士・津田助左衛門」の故事に因んで和時計をモチーフにした「若宮大通公園・矢場町交差点からくり人形時計塔」が建てられています。 (巻末に説明)

南には寺院が隣接しており、明治43年3月より鶴舞公園にて90日間に260万人動員した関西府県連合共進会開催に伴い、建造に携わる多くの建材関連店が万松寺・総見寺・性高院境内に裏門前町として進出。北の矢場町は「ものづくり」のインフラに恵まれ、家具問屋とともに指物、ガラス、金具店が昭和30年代まで軒を並べていました。北見さんの昭和30年代地図をもとに、戦後開発された若宮通り北から懐かしいお店をご紹介してみましょう。 (写真2)

昭和34年頃の矢場町1-2丁目住宅地図
写真:2 昭和34年頃の矢場町1-2丁目住宅地図(北見氏作成)
南は区画整理でできた100M若宮大通

南呉服町通りの東側は政秀寺の土地を借り上げ、南から菱家木工所さんの作業場、秋田自動車の跡地はデパート丸栄の家具・内装店からヤマダ電機を経て昨年末、外車ディーラー渡辺自動車「ランドローバー名古屋中央」がお洒落なショールームをオープン。石清金物、富士道木工の倉庫はリーパークの駐車場に。角は小松タペストリーさんの敷物・ドレープの展示場でした。寺の西と北の底地は政秀寺所有のため開発が進んでおらず、いまだに木造家屋と駐車場となっています。


写真:3 政秀寺西側、昭和からの現在へ:河合ビル-くまカフェ、
小松タペストリー-SEANT、丸栄ハウジング-ランドローバー

丸栄の角ビルはなぜ寺敷地に鉄筋コンクリートで建設ができたか? 「丸栄創業者・中林一族が寺の檀家総代で当時の住職も断れなかった」といわれていますが、真実はいかなるものでしょうか?(写真3)

西側は角の民家北に大兼家具店、荻野建具店、菱家木工、石家道具、富士道木工、鍋野金庫と軒を並べた道具屋ストリートを形成。なかでも富士道さんはいち早くビルを建設、上階には能舞台があり、粋な親父さんがお稽古されていました。現在は「NOCE」という洋風家具ショールームとなっています。富士道さんの三好工場は広大な敷地に人食いサメ「ジョーズ」の剥製があり、工場直売セールに何度も訪問した記憶があります。(株)菱家木工場は現在、菱家ビルとしてマンションとなり、3代目菱田雅之さんは矢場町2丁目町内会長として地元で活躍されています。

ベル栄ハウス・鈴木さんは江戸時代から同地に代々お住まい。趣あるレトロな今津伸銅店・現在も営業中
写真:4 ベル栄ハウス・鈴木さんは江戸時代から同地に代々お住まい。
趣あるレトロな今津伸銅店・現在も営業中

北のブロックは江戸時代から下級武士の居宅がならび、現在のベル栄ハウスオーナー・鈴木さんは江戸末期から同じ土地にお住まいと聞いています。お隣の「地金伸銅商品・今津」は家具建材の金具部品製造卸として現在も経営され、粋な和風店舗には昔ながらの尺貫法・度量衡が鎮座しているようです(写真4)。そして、前田寿仙堂は茶道具骨董で現在もマンション併設で営業されています。

南の尾畑板硝子さんは家具材料「中日ガラス」、角の河合茂商店は「君が代」文具ブランドが懐かしい思い出です。北角の(株)瑞穂商事さんは愛知時計の卸部門として名門であり、和時計制作とご縁があるように勝手に考えています。

また、地元では矢場町を呼ぶイントネーション発音は「ば」を高く発し、「ちょう」は下がることにご注意下さい。

「若宮大通公園・矢場町交差点からくり人形時計」
http://www.geocities.jp/urbanivjp/karakuritokei.html

若宮大通公園・矢場町交差点からくり人形時計塔

和時計風の躯体から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を模したからくり人形(身長60~80cm)が交互にせりだし1日四回各五分間の演技をします。人形は八代目玉屋庄兵衛氏の作によるものです。
そもそも名古屋は尾張からくりの古里であり文化、文政期を頂点とする江戸時代には数多くの山車からくりが製作されて現在でも各地の祭礼で主役を勤めています。また名古屋は時計の古里であり津田助左衛門による国産時計第一号や明治初期の時計産業が全国に先駆けて誕生した歴史が有ります。さらに名古屋は信長、秀吉、家康三英傑の古里でありこの三人によって戦国時代の天下が平定された歴史は余りにも有名です、従ってからくり人形時計は名古屋の生い立ちを象徴していると申せましょう。
この事業は地元の大須と栄を中心にした若宮大通の環境を良くする会の構想と本市若宮大通公園整備にかかるモニュメント設置計画が一致したもので官民が一体となって実現したものです。特にからくり人形は若宮大通の環境をよくする会より大須と栄を結ぶ若宮大通の再整備と市制百周年に協力する趣旨で寄贈を受けました。