矢場町一丁目西・守綱寺、小倉トースト
徳川十六神将の一人、「槍半蔵」渡辺守綱(わたなべ もりつな)は三河松平氏の譜代家臣として家康に仕え、尾張藩家老として菩提寺を名古屋町づくりの起点としました。「南寺町」北端に守綱寺(しゅこうじ)を構え、江戸末期には青松葉事件で処刑された渡辺新左衛門の墓も建立されたといわれています。
写真:1 宝暦地図・江戸時代の守綱寺付近(徳川美術館蔵「名古屋井熱田図」)
寛延元年(1748)以降、宝暦十三年(1763)以前の成立と推定されている。
「守綱寺」から東西に寺院が林立、ここから1km位に広範な南寺町を形成しています。
18世紀中期・宝暦年代の地図(写真1)では、同寺の西は白林寺、南には東照宮御旅所、若宮八幡社とつながり、東は末広町を挟んで清須越しの多くの寺院が立ち並んでいます。
現在も羽塚尚明住職ご家族がお住まいで、奥様は栄学区の子供会役員として地域のお世話をされています。
南寺町も戦災と区画整理で寺社の面積は半分以下になりました。敷地内の墓はすべて平和公園に移転となり、新しい街づくりのキッカケとなりました。
写真:2 平澤・服部宅。練習グリーンはコインパーキング2台分となりました。
数寄屋建築のご自宅で雨戸が懐かしい。
寺の向いにある平沢外科の大先生は京都大学医学部から軍医を経て戦後に開業。けっこう荒っぽい手術で、虫垂炎などでも早く退院させてくれると話題で、「平沢軍医さん、盲腸手術は即日退院!」と繁昌していました。
先生のお嬢様は服部紘子さん。アマチュアゴルフでアプローチの上手い天才少女とよばれ、全国各大会にも出場されていました。プロゴルファーの服部道子は娘さんで、ご自宅は守綱寺の南隣。玄関の前庭には練習グリーンがありました。現在は2台分のコインパーキングとなっています。表札には「平澤・服部」両家名が併記され、数寄屋造りのご自宅にお住いのこともあるようです。(写真2)
紘子さんは和合ゴルフ場でプレイされたり、近所で買い物されたり、笑顔で挨拶されるとても気さくな方です。ミッちゃんは1985年の全米女子アマで当時史上最年少、日本人としては初の優勝を経てプロデビュー。1998年には年間5勝を挙げて賞金女王となりました。母上と同様にお医者さんとご結婚され、一昨年ベイビー誕生とうかがっていますが、最近は町内でお姿を拝見しておりません。
レース卸「野村商店」現在3代目野村忠司さんには町内会長、栄小学校PTA会長、名古屋子供会連合会広報理事など地域のお世話をいただき感謝しております。
「大石豆腐屋」さんは毎朝早くからお仕事され、大豆の「ポワー」っとした香りが懐かしい思い出です。
「割烹光洋」はいち早く鉄筋ビルを建設され、「ホテル光洋」に変身。栄界隈ビジネスホテルの先駆といえます。現在はそのままの建物で札幌かに本家グループが社宅と託児所として活用されています。
ブラシ製造卸「徳安」伊藤さんは駐車場経営と野村さん北隣換地移転した洋服・富久屋の場所でマンション「フォトレス栄」を運営しつつお住まいです。
内装用繊維卸の「熊田商店」さんは住吉3丁目に移転。一帯はライブハウス「ホリディナゴヤ」と坪井花苑さんの作業場と変わっています。
昭和46年、ほていや(古川呉服店)・西川屋チェーン(西川屋履物店)が合併してユニー株式会社が誕生。ほていや本社には古川ファミリーはお住まいでなく、活気ある配送センターとしてオート三輪車で賑わっておりました。現在は7社のコインパーキングが並んで当時の面影はまったくありません。
写真:3 若宮北住吉通り南西角:喫茶満つ葉・伊藤大商店・ほていや本社
跡地はそれぞれ、ブティック、(株)モルテン名古屋支店、コインパーキング
と変遷。
文具製造卸「(株)伊藤大商店」のご次男の伊藤豊君は小生の白川幼稚園時代の親友で、事務所奥一階のダイニングでしばしば食事やパーティなどご馳走になりました。当時としては珍しいテレビが2台、洋風リビングにもありお金持ちの洋風生活にビックリしたものです。母上の手づくり料理など、家庭の味を知らない料亭の小倅(せがれ)正雄君には羨望の的でした。先代の伊藤大氏は名古屋文具卸組合の設立に尽力、業界に貢献されました。現在はサッカーボールなどスポーツ球具・(株)モルテン名古屋支店として、建物もそのまま利用されています。(写真3)
写真:4 小倉トースト発祥の地、喫茶アリ 2010年頃(写真3と同じ)
若宮八幡社鳥居前の喫茶店「アリ」は、ナゴヤめし「小倉トースト」誕生の地です。伊藤早苗さんは3年程前に閉店され、現在はブティックとなっています。もともと、三越隣にあった小倉トースト「満つ葉(まつば)」が移転し、15年程前にオーナーの西脇さんから受け継いだと聞いています。(写真4)
「こなもんや三度笠」のブログから、引用紹介させていただきます。
大正10年頃、名古屋・栄に「満つ葉(まつば)」という喫茶店がありました。そこに「西脇キミさん」という美人で心の優しい評判の女性が働いていました。彼女は、「広小路の小町」と呼ばれました。喫茶店のオーナーのお嬢様。彼女を一目見たさに旧制八高(現・名古屋大学)の学生たちがたくさん押しかけたそうです。
当時、バタートーストはハイカラブームの人気メニュー。キミさんのご両親は、市内の大須で製餡業を営んでいたので、メニューには「ぜんざい」もありました。食欲旺盛な学生たちは、トーストとぜんざいを注文。トーストにぜんざいをトッピングして食べていました。それを見ていたキミさんが、トーストにあんこを挟みました。これが、小倉トースト(あんトースト)の始まりです。
昭和34年頃・住宅地図:矢場町一丁目若宮八幡社北通り(住吉通南)