矢場町一丁目・なつめ・住吉ビル
写真:1 なつめ開業時の加瀬ふみえさん、ラムールより花輪とマッチ灰皿
住吉ビルの西隣、矢場町1-17「バー・ラムール」は、加瀬文恵さんが住吉町1・バー三姉妹から蔦茂北の第3ビルにあった「なつめ」を経て独立し、店舗を開業した場所です。(写真1)
現在は8階建てのビルとなってクラブ、プール、ヘルスクラブ、料亭個室、フランス料理店を併設した超高級会員制「夜の商工会議所??」となっています。
文恵さんは、話題多き女傑で現在81歳、名古屋では最も著名な女性経営者の一人といえます。昨春(平成26年3月19日)、吹上・いちやなぎ斎場で「宇津井健さん」の喪主を務められ、日本中がビックリしました。あるブログから、ご両人の素敵なラブロマンスを紹介させていただきます。
亡くなる2週間ほど前、宇津井さんは文恵さんにこんなことを語り始めたという。
「僕は君に喪主をやってほしい。名古屋で葬式をやりたい。だから正式に籍を入れてほしい。息子には僕から手紙を書くから。あなたは商売柄、僕と結婚すると迷惑になるかもしれないけど、僕は、ぜひ君と結婚したいんだ」
文恵さんにしてみれば、思いもかけないプロポーズだった。そして、宇津井さんが亡くなった3月14日、長男も納得のうえで、宇津井さんと文恵さんは正式に入籍した。亡くなる5時間ほど前、宇津井さんは、か細くなった弱々しい声でこう言ったという。
「籍も無事に入れて、よかった、よかった…」この言葉を最後に、宇津井さんは眠るように安らかに、この世を去った。
写真:2 日本料理「加瀬」全景、右に住吉ビル、奥に「なつめビル」
南向かいのメリヤス問屋・寺沢商店(株)さんは、その後、大西社長の婦人既製服(株)大繊を経て、、現在は「なつめ」専用駐車場。角のカメラ材料問屋(株)S商会さんは、文恵さんの実弟・加瀬英比古氏が経営する会席料理・加瀬となっています。京都の吉兆ご出身で湯木オーナーの直弟子として「白吉兆」の看板を掲げている店です。(写真2)
界隈では「なつめ」で文恵さんの薫陶をうけたママたちが、気の利いたクラブを経営されています。ピボットビル6F「みつこ」、インペリアルプラザ「麻樹」などが代表格といえます。
住吉ビルについては創業者の定政さんのご長男英樹氏の愛知学芸大学(現教育大学)附属名古屋中学校時代に親しくしていた友人柴田正康さん(清須市・愛知登文会理事、旧町名復活の会メンバー)から詳しくご説明いただきましたのでそのまま転記します。
住吉ビルの前身は、住吉通・最南端の割烹として三業地に相応しい料理旅館「清風荘」だった。
現オーナーの台湾で教師だった父、定政さんが戦後引き揚げ後、同地で清風荘を開業。中学2年(昭和30年)の頃、定政家を訪問し、天麩羅を天つゆで食べる事に驚愕した覚えがある。当時、一般家庭では、醤油かソースで食すのが普通だった。
住吉ビルは日本でも最初の住宅供給公社資金を導入したビルだった。
返済後の所有権を巡って、定政父が公団と長期に亘り係争していた。その後各地で頻発した所有権返還抗争の嚆矢といわれ住吉ビルに関する係争は、住都公団にとって大きな事件でしたので、公団に記録があると思われます。
先代は係争に備えて名大法学部に聴講生として入学したと聞いています。
ビルは次男が相続し、私の同級生である長男・英樹は弟から賃借し、喫茶「いよ」を営んでいた。喫茶には近隣の店主が出入りし、特に「加瀬」の主人が、4時頃酒を持ち込み、店から料理を出前させて和んでいました。度々ご相伴に与かったのが思い出。
先代は奥さんも大柄な人で、英樹君も大柄でした。喫茶「いよ」(最愛の奥さんの名前)は奥さんが足を悪くして廃業、優雅な引退生活を過ごしていましたが、がんに侵され平成22年7月3日逝去(71才)されました。
私は英樹君と学大附属中学で3年間同クラス、明和サッカー部で3年間共にボールを蹴りました。大学は英樹君が遠く鹿児島へ、名古屋へ残った私と離れ離れになり、「いよ」開業後交友が復活しました。
因みに西脇君(末広町内会長・西脇光彦氏)も附属の同期生ですが、当時の附属は3年間クラスと担任が持ち上がりで、私と英樹君はB組、西脇君はA組で、余り交流がありませんでした。
英樹君と西脇君は、近所という事もあり、ゴルフ友達(共にシングルプレーヤーでした)として、親しくしていたようです。
写真:3 現在の住吉ビル:1F3軒目がパンケーキELK、上階は集合住宅でした。
喫茶「いよ」はビル1Fにあり、蔦茂の料理人やら近所の方々の憩いの場で、夕刻には西脇さんが碁盤を持ち込み囲碁会所でもあったようです。現在は、シルバー装飾品ブティックと変貌しています。
私の思い出は1Fのバー「ロダン」で花柳美洲さん踊り稽古の後、森島先代社長や西脇光彦さんの叔父さんによくご馳走になったことです。
昨年(2014年)春には京都・大阪で大評判のパンケーキ店「ELK」(エルク)がビル南側にオープン、連日若い女性の長蛇の列が話題です。(写真3・奥の高いビルが「なつめ」)
先代の定政さんはとても大柄な方で、南筋向い森島の洋服仕立て部門(株)冨久屋商店(小生が最後の社長・モリシマと合併)の常連で、ビッグサイズ仮縫いにテーラー職人が苦労していたことが思い出されます。 最近はお付き合いがなくなりましたが、現オーナーは矢場町1丁目町内会にも属さず地域とのコミュニケーションがなく、ゴミ処理や清掃管理など近隣への課題が多いようです。
昭和34年頃の住宅地図より住吉ビル周辺