若宮八幡社の門前町・末広町三丁目
戦後、庶民の生活も安定し岩戸景気に沸き立つころ、昭和34年4月に皇太子・美智子妃殿下ご婚儀があり、婚礼ブームに伴い若宮八幡社での結婚式が年間数百件挙行されました。披露宴も蓬莱さん、芋子さんからの出張料理提供の若宮会館のみならず、隣接の「旅館八幡」も週末は大盛況であったといわれています。門前では、長谷川結納店、大国屋扇子店(現住吉町2丁目に移転)、森田宝石商、宝飾・花木、人形守田など、祝儀関連のお店が軒を並べていました。
写真:1 (株)守田 本社ビル
写真2:若宮祭黒船車(江戸末期の尾張名所図会をイメージ着色)
写真3:末広会館ビルとラーメン一風堂のお客様の列
なかでも創業昭和10年(株)守田は現在も雛人形、五月人形の大手でもあり、ダイヤ鯉のぼりは武将の幟とともに「尾張の黄門様・徳川宗春」の遊び心を感じさせるオリジナル作品です。小生宅の近くに、同社は鶴舞4丁目に配送センターをもち、毎朝、番頭さんが周辺を清掃されている姿に感動しております。(写真1)
末広町は別格で若宮祭礼では、常に行列の先頭はひときわ立派な「黒船車」がリードして祭を盛り立てておりました(写真2)。毎年の5月祭礼の前2日間夕刻に、末広町衆が「買いにおいでー」という問屋の露店バーゲンセールが戦前から続き、街の名物となっています。また、同町内で末広会館というビルを所有して組合事務所を3階に、1-2階はテナントを入居させています。近年、会館の北となりにラーメン「博多一風堂」がオープン、昼時には長蛇の列で人気が続いています。(写真3)
写真4:宮吉硝子ビル:定礎・・・現金問屋・根来ビル
昭和35年当時から3丁目に現存する企業は東側の不動産の藤谷商店、昭和60年頃「聞安(もうあん)塾」という中学受験用の塾教室を藤谷さんのご家族が3階で運営され、多くの小学生を車で送迎する父母で夕刻から賑わっていました。ビル上階は住居があり本町通りのマンション以外の唯一の住人ではないでしょうか?
南には大正10年創業の宮吉硝子(株)が昭和61年に大型ビルを建築。大阪の現金問屋「根来」さんに一棟ごと賃貸されています。宮吉さんの本社や配送センターは昭和区福江町に移転されましたが、立木彰一社長は若宮祭礼などにも活発に関与されています。(写真4)
これからは、正雄君の記憶から戦後の末広3丁目を紹介してまいります。小物卸大手の味岡屋さんは公園沿いの店は白川コーポラスに変身、弟さんの伊勢ヤ味岡屋の建物は神谷利徳カリスマ設計士が町屋造りをそのまま残してナゴヤめしの元祖、稲本健一氏ゼットンの一号店として平成6年にオープン。その後のレストラン展開の礎となりました。現在は創作和風居酒屋オアシスとして、木造建物を生かした営業をされています。
味岡屋長崎家の先代夫人は宝タクシー企業群・創業者森重利氏の実妹で、ご長男の長崎守利さんは現宝グループ代表として陣頭指揮されています。守利君は小生の白川幼稚園、栄小学校、東海中学・高校と2年後輩でいつも中学通学の市電で僕の鞄を持ってくれていました。慶応大相撲部でも活躍。気持ち良いスポーツマンでもあり、末広町マンションにお住まいです。
各地の洋服仕立てテーラーに毛織物を洋服地の切売りする羅紗屋も3軒、高取ラシャ、安藤商店KK(アンケン羅紗)、トヨタ産業名古屋支店・倉庫と地図に表記されています。アンケンさんは角地でもあり、バブル期に坪1000万で土地売却と話題になり、つるや靴店店舗から現在は出版事業、WEBサイト運営を全国レベルで展開する(株)ワークスジャパンとなっています。
写真5:東建・栄タワーヒルズ予定地(ヘラルドセンター跡地)
宮吉硝子の南、御幸毛織(株)の総代理店トヨタ産業は、大阪本社に業務集中して同地を名古屋服地卸商協同組合に譲渡。小生が同組合の副理事長のときにヘラルドグループの古川為之さんの(株)古川ビルに売却いたしました。南角地はヘラルドグループのレジャーセンターとしてボウリング場、映画館をはじめヴィレッジヴァンガードさんの出店もあって大いににぎわっておりました。同グループの事業整理にともない、同地は運送会社を経由して東建グループに転売され、栄タワーヒルズの名称で高層高級マンション建設予定とのことですが、数年空地で放置されているのが気にかかります。(写真5)
写真6:解体中の若宮会館、2015年春「若宮の杜・迎賓館」としてオープン
また、婚礼や展示会で長年親しんだ若宮会館も現在解体中で、平成27年春「若宮の杜・迎賓館」として名古屋観光ホテルの運営でオープン予定とのこと。どんどん変化する末広町です。(写真6)
資料:末広町3丁目地図(昭和35年頃の住宅図・北見版)