料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第39回(2014.6.26)

末広町の旦那衆(1-2丁目西)

昭和35年頃、旦那衆の末広町は袋物雑貨・靴問屋、羅紗(服地)店が多く、これらの老舗は現在も業態を変えて存続発展されています。
一丁目西側の北からユニークな人々をご紹介してまいりましょう。

岩田ビル看板
写真:1 岩田ビル看板

KK岩田産業さんは明治6年創業の岩田工機(株)が発祥で機械の製造販売からスタート。大正10年にはマドラス(株)として西洋靴の製造販売、南大津通りの靴専門店「アジアの靴」は最近まで営業され、とてもお洒落な専門店でした。(写真1)

そして、今年全通80周年を迎える旧国鉄高山本線開通の3年前(昭和6年)、先々代岩田武七翁が、飛騨下呂の霊泉に、日本に誇れる温泉施設・湯之島館を創業。「自然の霊泉に恵まれない、中京人士の唯一の慰安場たらしむと同時に山國飛騨の神秘を拓いて文化のパイオニアとして地方疲弊の窮状を救はん」と岩田翁の言葉にあります。

昭和6年には都市ガスを販売及び供給する犬山瓦斯(株)を創業するなど、現在は社員数600名以上、売上も178億という地域への貢献企業です(各社のHPより)。そして、今の代表の岩田達七、栄七ご兄弟は、栄地区の街づくりへも幅広くご尽力いただいております。

若宮八幡社の門前町として発展した末広町には、「山車からくり」につながる人形店もあります。南隣の西脇人形店も老舗でしたが、いつしかコインパーキングになっています。御曹司の西脇仁司君は白川幼稚園、栄小学校と同期生で、とてもヤンチャでイタズラっ子でした。正雄君はいつも仁司君にいじめられてばかりでしたが、彼は名古屋商工会議所国際部長から名古屋国際ビジネス・アクセス・センターの代表として、愛知県へ進出を希望する外国企業のサポートに尽力されているようです。

靴店・松本商店は創業者松本満氏が、鞄・袋物・靴卸商として昭和23年スタート。百貨店やスーパーへのランドセルの大手卸として発展し、ヨーロッパへ進出ほか、販路を全国に拡大されています。
最近まで、満夫人のおばあちゃんがお元気で活躍されていました。平成18年にお孫さんの勝さんが社長就任され、新しいブランド展開を企てていらっしゃいます。会長松本孝二氏は同20年に旭日双光章受章され、名古屋中ロータリークラブ会長を歴任。欧州通の大のワイン好きで、貴重なボトルを私も近所のよしみでご馳走になりました。

末広町で焼失を免れた2棟:佐藤タオルさんと北隣のショップ
写真:2 現在の末広町ビル群: 左よりエリット、大橋大吉、モリシマ、マツモト

袋物卸・モリシマ本店は喫煙具販売を中心に営業されていましたが、貸オフイスビルとなっているようです。南隣は大型マンションに、松村薬粧さんは賃貸ビルと変わりました。

(株)大橋大吉商店は大正5年(1916年)矢場町にて、べっ甲髪飾り専門卸として大吉氏が創業され、同12年から現在地に移転。松坂屋名古屋店他、各地へ事業展開、平成8年大橋栄治社長就任後は宝石や毛皮イベント、海外ツアー開催で話題の企業です。

KK山口商店は昭和27年に現在地に移転。昭和38年エリット株式会社に社名変更し、現山口勝弘社長はブランドと社名を統一し、販路を全国に展開され鞄卸の大手として活躍。末広町町内会長として街の伝統と文化を承継しつつ、地域の発展に寄与されております。(写真2)

その南、酒屋「かぎや本店」はお祖父ちゃんが他界したのを機に2,3年前に閉店し、コインパーキングとなっています。化粧品「村瀬吉三郎商店」は明治時代からの老舗でしたが、土地を売却された後も故・村瀬達夫さんは前町内会会長として尽力されておりました。

大旦那といえば服地KK西脇商店。初代西脇由兵衛が研屋町に明治10年、西洋羅紗の切売り商として開業。明治38年に末広町現在地に移転。末広町の大旦那として貢献され、大正11年には若宮八幡社の境内に神御衣(みころも)社を建立されました。針塚とともに針供養祭りが毎年2月8日に行われます。特製の豆腐やこんにゃくに使った針をさして供養するとともに、裁縫の上達を願う女性達の古くからの年中行事の一つで、今では神御衣社でのこのお祭りは、女性達の幸せを願うお祭りとして知られるようになりました。

私の経営していた森島羅紗店は昭和12年西脇の番頭・森島慶一が暖簾分け頂き創業しております。そして、二代目由兵衛氏の大番頭・実弟の嫁が父・深田正矩の従姉でもあり、ご縁がつながります。今でも毎年11月12日「洋服の日」には、森島スタッフと有志で供養祭を執り行っております。

西脇由兵衛さまご本宅:白川町3丁目
写真:3 西脇由兵衛さまご本宅:白川町3丁目

三代目由兵衛さんは大戦の傷痍軍人ですが、右腕を失っても各方面で活躍されています。全国服地卸商協同組合の重鎮としてだけでなく、左腕打ちゴルフを練習され和合コースでプレー、日本画も達者で嶋谷自然画伯の弟子としても話題の人です。また、戦後、白川町のほとんどの地域が寺町でアメリカ村に接収されましたが、数軒のみ白川町3・4丁目として残っていました。白川3丁目の南角は西脇家ご本宅に数年前まで由兵衛夫人が数寄屋造りの本格家屋にお元気でお住まいでした。昭和15年生まれの光彦さん(四代目由兵衛?)は私の繊維業界での後見人でもあり、兄貴分として公私にわたりお世話になっています。(写真3)

昭和35年当時の賑やかな末広町(写真2とほぼ同一地)
写真:4 昭和35年当時の賑やかな末広町(写真2とほぼ同一地)

このように末広町西通り(現地名:栄2-15)は50年前からも地権者が変わらないとことも多く、旦那衆の町と言えますが、往時の賑わいがなくなったことが寂しく思います。(写真4)

名古屋旦那衆文化発祥の地、エピソードの多い末広町物語、次回もお楽しみに!

末広町地図(昭和35年頃の住宅図)現在の栄2-15ブロック

地図は北見氏制作 末広町地図(昭和35年頃の住宅図)現在の栄2-15ブロック