昭和32年版地図から「富沢町4丁目・住吉1-2丁目の思い出」
先日、名古屋の旧町名を復活させる有志の会代表の北見昌朗さんが昭和32年版中区住宅地図を入手したとのこと、早速、住吉近隣コピーを送っていただきました。最近はネット検索がすすみゼンリンの住宅地図はあまり利用しなくなりましたが、正雄君の小学校3年当時の思い出いっぱいの地名・店名に興奮しております。昭和31年の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言され、戦後12年を経た神武景気の頃の下七間町界隈の繁盛ぶりを紹介してまいりましょう。
大正の頃、豊田佐吉が通った料亭花月は蒲焼町南、富沢町4丁目にあったといわれております。西側の現在三菱東京UFJ銀行名古屋営業部駐車場あたりは、食品問屋大手の梅沢商店がありキリンビールや麺類の木箱がイッパイあり、僕らの「かくれんぼ」陣地、「ポコペンポコペン、だーれが突っついた・・・」と鬼ごっこ、“缶蹴り遊び”で日の暮れるまで時を過ごしておりました。おむかえの倉庫がお洒落な「50円サントリーバー」としてカウンターバーの嚆矢としてオープンしました。偕楽亭など食堂、喫茶店、バーの南にパチンコフジは赤玉会館とならぶ老舗として現在はサウナも併設し賑わっています。隣接するオクムラ写真館、現在は五代館主奥村喜一郎氏が地区唯一の写真館として創業100余年営業されております。
広小路西角には高級家具・高麗屋ビル建設前のアーケードがあり、現在は呉服の市松さんのみが残っています。
広小路から南は住吉町1丁目、焼け残った富国生命ビルの上階は廃墟となり鳩・カラス・蝙蝠の巣窟でちょっと気味悪く子供達も近寄りませんでした。1階は赤玉パチンコ、地階はキャバレー赤玉と山田泰吉氏の中部観光グループの礎で、後の東急グループへの承継となった永沼憲男さんもここからスタート。そして、昭和36年10月に泰吉さんが東京・赤坂に「東洋最大級」と謳われたレビューキャバレー『ミカド』を開業させたものの、同氏の下手な経営管理が災いしてか、1964年東京オリンピック開幕を待たずしてミカドの運営は破綻した(施設も閉鎖)。これに連鎖して中部観光グループも経営が行き詰まり、丁度東名高速道路の開通を見据えて名古屋進出を目論んでいた東急に昭和40年4月買収されました。
南にはバー三姉妹、地元の邦人相手の最初のクラブと言われ、先般50周年を迎えた「なつめ」オーナーマダム加瀬文恵さんがデビューしたお店、バータイガーは大喜ビル、三越食堂はイデックス・IDディスコと姿を変えています。そして、南角にはキャバレー女の城、サロン赤い靴と進駐軍アメリカ兵隊さんと共に名古屋人が一緒に享楽していたようです。
東側には今も残る栄町郵便局、栄銀座の路地を挟んでフルタメさんが買収した住吉ホテル、タバコ屋の米ちゃん、茶道具の長宜堂、南角にはうなぎ割烹「うお與」、山田静雄先生の新々薬局は日用品のディスカウントでは名古屋で最初ではないでしょうか?
そして、界隈に多くあったのがタクシーの操車場、住吉1丁目には丸八タクシー、2丁目には朝日タクシー、鉄砲町2丁目には東和タクシーが外車とトヨタクラウンを並べていたようです。
そして、住吉2丁目東は割烹・料亭街:北から料理・千代富久、かしわ香楽、うどん割烹戸田屋、ふぐ料理灘屋、おでん「くに平」、割烹住吉、タチソウ、麻雀富月センター、榎本マッサージ、そして、料亭蔦茂と三業者の大型店が軒を並べていました。
西は文具卸・菊花堂から高級バー「シロー」ほか、飲食店が軒を並べ、大型キャバレーメイフラワー、ゴールデンナイトは泰吉の実弟、山田久太さんの経営で何度も火事騒ぎがありましたが、建築物は現存し現在上田土地(株)が管理されています。住吉小路を挟んで、寿司の豊年、南角には住吉薬局がご夫妻で住み込み営業されていました。三蔵通り沿いには、鞄卸近藤産業、中日・中経の菅井新聞店が懐かしい。菅井さん宅には多くの新聞配達中学生が住み込み生活、同級生の菅井隆光君と一緒にカウンターで「婆抜き」トランプやメンコをして遊んでもらいました。
昭和33年つたも新車クラウンと母のり子
背景は左より:寿司豊年、キャバレーメイフラワー、シロー、街路樹、電柱広告「蔦茂」、マッサージ榎本治療院看板が懐かしい
下は昭和32年版中区住宅地図12ページ・富沢町4丁目から住吉1-2丁目周辺