住吉町に残る紫式部伝説と供養塔
今春、名古屋コミュニケーションアート専門学校、小説作家専攻堀川泰伝ゼミナールの学生達の卒業制作として「新紫式部往還」(全34ページ)が発刊されました。同校の文学専攻のある総合デザイン科の第3校舎は移転前の「伝光院」敷地の南に位置しております。「住吉の語り部となりたい」シリーズの初回に紫川を紹介した関連もあり、地元学生の依頼で取材協力などから伝説の紫式部との由来を私説にてまとめてみたいと思います。
伝光院本堂:白川幼稚園クリスマスパーティー・園児集合写真(昭和27年12月)
右端・吉田宣章園長、前列右から2人目・年少組の正雄君、サンタクロースの
後ろ奥の扉を開けるとご本尊阿弥陀如来坐像があった記憶があります
今はありませんが、私は昭和27年から料亭蔦茂の西30m三蔵通り南にある白川幼稚園に通っていました。伝光院敷地内で先代の吉田宣章住職が、幼児教育の経営をされていたのです。
戦後の区画整理後で300坪くらいの敷地でそう広くはありませんが、南北に奥行きが長くて70Mくらいあったと思います。通りに面した入口から階段を降りた左側に泉があり、水が湧いていたとは覚えています。有名な方(紫式部)の石碑があるということも聞いていました。泉の向かい西側には集会所を兼ねた本堂があり、週2回ほどバレエ教室も開かれていて可愛い女の子の練習を覗くのが楽しみでした。そして、教室が3つ、年少は赤組、年中は黄組、年長は青組と並び、小さな運動場南奥にはブランコがあって、乗るのがチョット怖かった思い出があります。
伝光院・紫式部の碑
(住吉町よりS35年に名東本町に)
清州越しの由緒ある浄土宗法燈山・伝光院は昭和35年に千種区猪高町(現・名東区名東本町20)に移転し、跡地にはマンションが建設されましたが、現在も紫式部の碑は同地の本堂の北にそのままの形で現存しております。
千年ほど前のことですが、「碑には伝説があって、紫式部に仕えた越後という侍女が登場。越後は、湧いていた泉があまりにも清らかなのを見て、『紫式部様をここでお弔いしたい』と村人に頼んだという話があります」「村人に墓を建ててもらったあと、越後は尼となり、3年ほど墓の前で経を上げておりました。そして、彼女は『紫式部様のもとに参ります』という置手紙を残し、紫川に身を投げたといわれております」(伝光院二十八代目現住職・吉田教行氏談)
参照:「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第1回
寺に湧いていた泉は越後の入水の後、「紫の泉」とよばれ流れは紫川と名付けられたか、昭和20年の空襲で伝光院の資料がすべて焼失して、その因果は現代に残されていません。
では、何故、寺に紫式部の供養塔が建立されたか?
江戸時代の家康の都市づくり、政治の江戸、文化の京都、経済の尾張といわれ、名古屋は豊かな経済に恵まれ教育熱心で女・子供にいたるまで読み書きが非常に盛んで、識字率が世界で最も高く85%以上と考えられています。それは武家が職芸として寺子屋で町衆や職人衆に読み書きや学問を教えていたからです。お武家さまが士業以外の仕事をしてもよいシステムで、豊かで文芸盛んで平和な城下町といえます。
そして、からくりや和時計など物づくりの基礎には「文字が誰でも読める」教育レベルの高さがあり、設計図や指図書を職人衆が理解したインフラがあったといえます。町中の人は読み書きができ、寺子屋では教科書替わりに武家の得意な「論語」を学ぶ。すると、人々は恕の心構えを実践、親孝行して徳が上がる。治安も良好、悪質な犯罪やイジメも皆無の理想郷でした。
それに、文学も盛んとなり、短歌を詠んだり俳句を一般庶民が楽しんだりと、とっても裕福な地域といえます。松尾芭蕉はなんども尾張を訪ね、町衆や農家のリーダー達と句会や連歌の集いを開いたりしております。庶民が歌でお互いの心を通わす、平安の貴族文化をたしなむレベルに到達していたようにも思われます。
女性を中心に平仮名文字も盛んになり、版画印刷の適する源氏物語は名古屋の版元から出版され、街の貸本屋にも常設されるベストセラー。
これは私の推察ですが、当時の伝光院の住職さんか檀家衆が同院の寺子屋のPR活動の営業シンボルとして伝説を作った。泉があって、「紫式部に仕えていた官女が住んだ」という話にしたら繁盛するだろうと考えたかもしれない。町衆は源氏物語が好きだから、それを聞けば入塾申込み殺到。伝光院の住職がロマンいっぱいの石碑や話題を作って、寺子屋繁盛させ紫川にはまったかもわかりませんね?(注釈・紫川にはまる:旭郭が紫川のほとりにあったので、遊女を揚げる隠語)
「新紫式部往還」平成25年春刊行の表紙
発行:名古屋コミュニケーションアート専門学校
編集:ライトノベル・小説作家専攻
そして、子供の頃通った白川幼稚園の由来は、紫式部から連なる庶民教育の伝統と考えると感無量です。
紫の泉などを源流とする紫川も文明開化・明治時代となり汚染がすすみ、どす黒い流れへ。住民たちがもっと綺麗になってほしいと願いを込めて「白川」と呼び直したと、祖父良矩は語っていました。
現在、紫川は埋め立てられ暗渠となりましたが、地下に流れを蓄えて若宮通り洲崎神社の南から堀川に流れております。