料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第23回(2013.2.24)

生活と文化を結ぶマツザカヤ…南大津通りの賑わい

前回は僕らの遊び場「丸栄」の思い出をお話ししました。栄小学校の通学路から離れた大津通りはヨソイキの街、特に大人についていく松坂屋さん(どういう訳か、この店だけ「さん」付で呼ぶのが慣わしでした)は特別の存在でありました。

幼稚園の頃から、毎日のように良矩お祖父ちゃんに手を引かれて松坂屋さんに通う日々が思い出されます。

カンガルーがシンボルのオリエンタル中村から、通りの両側にはアーケードがあり、楽しいお店がいっぱいありました。東側には守口漬大和屋さんの南、浪越軒の鬼まんじゅうとお汁粉、そして、白川幼稚園の同級生・市川裕子ちゃんのお母さんが作ってくれる大福の味が忘れられません。お店の左奥にある階段を上がり、3階が住まいでアーケード屋根の上からの風景がチョット印象的でした。

松坂屋前:祖父と正雄君、街頭カメラ女性撮影
松坂屋前:祖父と正雄君、街頭カメラ女性撮影

スポーツ玉澤、うどん屋、婦人衣料の鈴丹、アジアの靴、ガス器具屋の前ではライカのカメラを持った女性がパチパチ。お祖父ちゃんに住所を聞き、孫との写真を路上販売する商売が懐かしく思い出されます。そして、花長、日本画材の美阜屋、タチソウ、桃源亭、岡本造花、風呂釜屋、岩田結納店…皆、繁盛していたようですね。

松坂屋に入ると玄関右の石造りの階段を下がったところにある理容店が正雄君の行きつけの床屋で、椅子も豪華でしたが大理石の鏡は贅沢なヨーロッパ調でした。

松坂屋屋上・木馬
松坂屋屋上・木馬
松坂屋屋上遊園地、電気自動車
松坂屋屋上遊園地、電気自動車

勿論、屋上には丸栄に倍する大規模な遊園地、階段を使った2基の滑り台を中心に遊具がいっぱいで、爺ちゃんのデパブラを待ちつつ集まった子供達と遊んでいました。

当時から、松坂屋さんは市民の文化への貢献も多く、イベント、展覧会、劇場での公演がいつも開催され、生活になくてはならない存在価値がありました。

爺ちゃん曰く、「これからは本町通りより、大津通りが賑やかになるぞ。本町衆は電車を通すことに反対したのが凋落の始まりだ!」。

明治末の共進博開催に伴い、電車の軌道開設により大津通りが拡幅され、松坂屋、中村呉服店も本町から移ってきたとのことです。

西側には、栄町角から松坂屋食品館、カワムラヤデパート、勧業銀行、中央相互銀行、一柳葬具店、布地・丸澤屋、ふとん杉野、雀をどり、大林堂、安藤七宝店、呉服の松下屋など名門専門店が軒を並べていましたが、妙香園の街に漂う「ほうじ茶の香り」が名物でもありました。

現在、三蔵通りZARA(元勧銀)となっている西隣には、蔦茂のメインバンク名古屋信用金庫がありました。裸電球と板張り床で靴を脱いで上がり、毎日売り上げの集金に来る営業担当が正雄君の子守役を仰せつかっていたようです。勿論、同金庫の子供預金第1号は深田正雄の筈です。大同無尽と合併した中京銀行の社史に掲載を依頼しなくてはなりませんね。

南に行くと料亭蓬莱、漆器屋さん、氷屋さん、乳母車屋(籐細工)さん、そして、戦災で焼け残った閑所長屋をとおり、勝鬘寺北の「そろばん塾」では学校帰りの子供達でごったがえっていました。塾帰りは寺の西、一文菓子屋で駄菓子を求め、矢場公園で紙芝居、鬼ごっこをしていると日も暮れだす「栄・三丁目の夕日」。良き時代でした。

南大津通りから、市電や両側のアーケードがなくなり、近年、商店街では積極的な町づくりへの取り組みがなされています。歩道の拡幅、街づくり協定に基づく建築セットバック(2.5m)規制、共同清掃、共聴システム、街路灯・イルミネーション、バナー、ケヤキ並木の景観維持、歩行者天国再開など、素晴らしい活動が栄地区全体をリードしています。

仲良しの専門店グループの指導者、故・澤木公義さん、杉野峯一郎さん、そして、栄ミナミ商店会連盟・勝田明会長の尽力と奮闘に、改めて敬意を表したく思います。