料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第103回(2021.12.12)

柳生新陰流兵法を名古屋の無形文化財に!

所縁の地は矢場町、仲ノ町

柳生耕一平厳信氏
柳生耕一平厳信氏

尾張に伝わった柳生新陰流兵法 第二十二世宗家、柳生耕一平厳信氏は名古屋に在住され、武道指南とともに同兵法の名古屋市無形文化財指定要望や柳生家旧宅跡説明板設置運動を積極的に推進されております。

伝統ある文化承継の活動は中区の街づくりにも貢献いただけると思い同会のHPを引用しながらご紹介させていただきます。

柳生新陰流兵法HPよりhttps://yagyu-shinkage-ryu.jp/

<柳生新陰流兵法とは>
「新陰流兵法」は室町時代末期、流祖上泉伊勢守藤原秀綱(のち信綱)により創始されました。流祖に師事した柳生石舟斎宗厳(むねとし)は「無刀の位」を開悟して第二世を継承し剣の柳生の礎を築きました。その嫡孫である兵庫助利厳は、祖父石舟斎の薫陶を受け第三世を継承し、元和元年に初代尾張藩主徳川義直公の兵法師範となり尾張柳生家の始祖となりました。

流祖以来、厳然と受け継がれた「新陰流兵法」の道統は、尾張藩主7公と尾張柳生家14人の当主によって正しく継承され、現在の第二十二世宗家柳生耕一厳信に至っています。

明治以降幾多の困難がありましたが、この尊い伝統の武道を護り永遠に伝えたいという第二十世柳生厳長の願いのもと、昭和30年に柳生会が設立され、現在、名古屋を中心に国内4カ所、海外2カ所の地域柳生会が宗家指導のもと活動しています。

<「新陰流兵法」と「柳生新陰流兵法」>
「新陰流兵法」の名称は歴史的にもいくつかの呼称が存在しておりますが、マスメディアへの露出が増えるなか「柳生新陰流兵法」の名が広く一般に認知されるに至り様々な誤認も生じてまいりました。

こうした状況を鑑み現在では、「新陰流兵法」は柳生家によって途切れること無く正統に継承されていることを明らかにすることと誤認回避のため「柳生新陰流兵法」の呼称を使用しております。日本古武道協会、日本古武道振興会へも「柳生新陰流兵法」として在籍し、「新陰流兵法」の正統として活動しております。

尾張の地に宗家と宗家補佐の高弟により代々伝えられてきました当流は、現在、柳生会会員へ宗家直伝の実技指導と口伝書の講義を行い、道統と伝統を護り伝えています。

矢場町1丁目白林寺が菩提所:(現在地:栄3丁目25-18)

やっとかめ文化祭2015年:白林寺での演武
やっとかめ文化祭2015年:白林寺での演武

元和元年(1615年)大阪夏の陣の後、成瀬正成公の推挙により、第三世柳生利厳が尾張藩主徳川義直公の兵法指南となり、正成公の菩提寺であった臨済宗妙心寺派白林寺が矢場町に居を定めて以降、尾張柳生家の菩提所となっています。

そして、平成27年11月、名古屋市民に伝統文化を紹介する「やっとかめ文化祭2015」のプログラムとして、東京大学名誉教授、場の研究所所長清水博先生と宗家により「尾張柳生新陰流と場の思想」の講演を白林寺本堂内にて行い、続いて本堂前庭で演武をしました。平成28年12月には、第二十世柳生厳長の五十回忌法要を営まれました。戦後の区画整理事業に伴い、現在は柳生家の墓は平和公園に移転しております。矢場公園はかっての白林寺の墓地でした。

矢場町3丁目・清浄寺は武道研鑽の場:(現在地:大須4丁目1-74)

清浄寺で連也三百十八回忌法要ご参列者
清浄寺で連也三百十八回忌法要ご参列者

名古屋市内矢場町にある第五世連也厳包旧宅跡に当流第六世尾張第二代藩主の徳川光友公が徳川家累代の祈願所として浄土宗の清浄寺を創建されました。

連也は、広大な敷地内に庭園のある屋敷を建て生涯独身を通して兵法に研鑽しました。また、農州関伝の刀匠、伊藤肥後守秦光代に刀を鍛造させ、刀装としての「柳生拵え」「柳生鍔」を工夫公案し、屋敷内に窯を築き茶碗や茶入れを焼かせるなど風雅の道を嗜みました。

平成24年6月、柳生会全体合宿の後、寛保三年(1743年)連也五十回忌の際に描かれた肖像画を拝し、飯田英明住職・副住職父子の読経のもと、三百十八回忌法要を営みました。

武家住宅図、現代図の丸印が柳生家居宅
武家住宅図、現代図の丸印が柳生家居宅
下園公園の左側の柳生三五郎が耕一氏の曾祖父、柳生三五郎厳周

地域では矢場地蔵として知られる清浄寺周辺に連也住居跡があり、お寺と道を挟んだフラリエは屋敷内の庭園でした。木々や草花の豊かな緑に囲まれ精進川沿いの池もあり、周辺の雰囲気とは一線を画す別天地となっていました。

仲ノ町一番に居を構える:(錦1丁目12下園公園西周辺)

利厳は義直公に道統を譲りその後を継いだ厳包から尾張徳川家二代藩主光友公へと、その後も三代藩主綱誠公が継承したように明治維新を迎えるまで腕の立つ7人の藩主(うち1人は世子)と11人の尾張柳生家当主により新陰流は受け継がれてきました。

明治9年廃刀令とともに斯業は頽廃しましたが、第十九世柳生厳周は家伝新陰流の純粋相伝を念として、一門孤立の道業に力をあわせ、家人子弟を養成して明治年間を通じて道業を続けました。

戦災によって兵庫助利厳以来、仲ノ町の屋敷と道場は焼失し、その活動すら危ぶまれた時期もありました。さらに厳長は新陰流の歴史や理論を後世に残すべく『正傳・新陰流』(講談社・島津書房復刻)を著しました。

居宅は名古屋観光ホテル北の下園公園西のあたりで屋敷南端地下を東山線が通っています。ここに「柳生家旧宅跡説明板」を設置することを名古屋市や地域に要望してまいりたいと思っています。

名古屋市の無形文化財指定要望

柳生新陰流・無形文化財登録要望記事(中日新聞朝刊・市民版)
柳生新陰流・無形文化財登録要望記事(中日新聞朝刊・市民版)

約400年にわたり名古屋市に根付いた武道の歴史的意義を次代に伝えるために、令和2年10月、柳生新陰流兵法を名古屋市の無形文化財に指定するよう、第22世宗家の柳生耕一厳信さん(68)が河村たかし市長に要望しております。

市の無形文化財の枠組みに「武道」はないということですが、河村市長は歴史的・文化的価値に理解を示し、職員に検討を指示されました。残念ながら未だ検討中なのか、具体的なアクションはないようです。

柳生耕一平厳信氏は令和3年8月23日ご縁のある旧宅跡地南の名古屋観光ホテルで開催される名古屋中ロータリークラブ例会でご講演の結びに次のように述べていらっしゃいます。

最後に、現代的意義でありますが、これは文化の継続性が非常に大事だと考えています。例えば、倭姫が日本武尊に草薙剣を渡すときに「慎みて怠ることなかれ(1900年前)」と説いたように、柳生家にも「他流勝つべきに非ず、昨日の我に今日は勝つべし(450年前)」という家憲があります。これは両方とも謙虚にあって、日々向上に努めよという考え方となります。そして、空海が真言宗として「消えずの火」を1200年間守り、今でも消えない火があるのと同様に、次の世代に受け継げるよう「消えずの火」を守ることが大事なのではと考えております。

栄地区の街づくりをテーマに、前回ご紹介した「南伊勢町は江戸川乱歩の街」につづき、南の矢場町の歴史資産を「名古屋柳生新陰流の里」としてPRできればと思っています。

旧町名を復活する有志の会・平成3年5月15日(土)例会で≪柳生新陰流兵法を名古屋の無形文化財に!≫というテーマで柳生氏から提言セミナー開催しました。内容と映像は下記HPにてご覧になってください。 http://www.fukkatu-nagoya.com/reikai/vol104.html