料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第100回(2019.7.17)

久屋大通公園:小袖川と久屋町

久屋大通公園は、北は外堀通、南は若宮大通へ約2kmにわたる都市公園で、名古屋市のシンボルロード100m道路です。2018年、三井不動産を代表とする企業グループが事業者に決まり、全国初の「Park-PFI制度」による再開発事業がスタート。現在、北エリアとテレビ塔エリアの再整備が進められております。来年3月のオープンを控え、生まれ変わった市民の憩いの広場への期待が高まっています。

いまは工事で何もなくなってしまいましたが、今回は、久屋町の昔をお話しいたします。

大須1-5、後藤新平宅跡説明
慶長(1596年)以前の尾張古図(上図):名古屋城は図の北に1610年に建設さました。築城前は那古野の中心・万松寺西に小山があり、
南北に小袖川が流れていました。(熱田三六氏提供)

戦国時代から泉が湧いていた北端は海抜12m、南のフラリエは海抜6mと大きな谷となっており、豊かな小袖川が流れ、南の現在のフラリエあたりで精進川に合流していたと思われます。川沿いには街道ができ、美濃から三河を結ぶ駿河街道につながる要路であったようです。

久屋町の由来は、初代藩主義直がこの町を通った時「この町の名前は、何と呼ぶのか」とお尋ねになった。お供をしていた者が「干物町です」とお答えした。「これからますますこの町は繁昌しなければならない。干物町という名前では何か物足りない。今から町名を改めて久屋町にせよ」とおっしゃった。久しく家屋のある町という意をこめて、初代藩主が名づけた町が、久屋町である。(『花の尾張の碁盤割』 P.87より)

テレビ塔の南には、松の木の下に小袖川の由来の看板が地元発展会により立ててありました。

小袖掛けの松の由来:工事で撤去されましたが、どうなるか?
小袖掛けの松の由来:工事で撤去されましたが、どうなるか?(左) 尾張名所図会:小袖塚 川沿い

恋の伝説が残る「小袖懸けの松」です。平家全盛期である平安時代、藤原頼長の長男で太政大臣であった藤原師長は、治承三年の政変とよばれる平清盛のクーデターが起こると、清盛によって井戸田村(現在の瑞穂区)に流されました。師長は、琵琶の名手として知られており、井戸田で琵琶を奏で自らを慰めていたようです。師長町や妙音通の名称由来ともなっています。

師長の身辺の世話をしていた娘(井戸田村 横江村長の娘「槐」)と契りあっていましたが、まもなく帰京を許可されます。師長は、土器野里(現在の清須市)まで見送りにきた娘に形見として琵琶の白菊を与えました。娘は後を追おうとしますがそれもかなわず、別れを悲しむあまり、松に小袖を脱いで掛け、与えられた琵琶を抱いたまま、小袖川に身を投げてしまったのです。

1610年名古屋城築城とともに、藤野といわれた台地の山や川が整地され、碁盤割の城下が建設され清須越しという、大都市移転が行われました。

蕉風
テレビ塔北東・桜通り南にあった蕉風発祥の碑。多くの樹木と
草花に囲まれた緑の歴史空間がなくなり寂しい限りです。新しい
開発でどのようになるか気がかりです。

久屋公園・テレビ塔の北東の足から20mぐらい離れたところに、巻紙を連想させる石碑と、その横の地上には副碑と教育委員会による説明パネルが建っていました。

「蕉風」とは、松尾芭蕉とその門人によって確立された俳句の作風。俳諧は連歌から生まれ、当初は“洒落”や“滑稽”を主とする言葉遊びでしたが、松尾芭蕉は“さび”を重んじ閑寂で気品高い芸術をめざしました。芭蕉は伊賀上野に生まれ、1684(貞享元)年に伊賀上野から江戸に下る途中名古屋に立ち寄り、名古屋の青年俳人らと連句の会を催して句集「冬の日」(芭蕉七部集の一)を刊行しました。「宮町筋久屋町西入ル南側」の借家に住んだその場所がここです。

家主は傘屋久兵衛、身元引受人は大和町の備前屋野水で尾張の町衆がスポンサーであったようです。弟子の河合曾良を伴って「奥の細道」の旅に出たのは、この5年後の1689年のことです。発祥碑は俳諧師が持つ「控え帳」をデザインしたもので、「こがらしの身は竹斎に似たる哉」を筆頭にした「冬の日」巻頭の表六句が刻まれています。
(愛知県・発祥の地コレクションHPより一部引用)

葛飾北斎「北斎大画即書引札」名古屋市博物館蔵
葛飾北斎「北斎大画即書引札」
名古屋市博物館蔵

百年余り後の葛飾北斎も、名古屋大好き文化人です。文化9年(1812)の秋、北斎は関西旅行の途次、南久屋(現在のラシック)門人・牧墨僊(まきぼくせん)宅に半年ほど滞在しました。その折、北斎が描いたという三百点余りの絵を、永楽屋東四郎(えいらくやとうしろう)が文化11年(1814)に出版したのが『北斎漫画』です。

文化14年(1817)に再び来名した北斎は、同年10月5日、本願寺名古屋別院〔西別院〕にて120畳敷(縦約18m、横約11m)の紙に大だるまの半身像を描くイベントを行いました。北斎のスポンサーは斯波氏家臣・小林城を治めた牧一族のお武家様であったようです。芭蕉も北斎も尾張藩の文芸への開放政策・出版業育成が逗留のきっかけと思われます。

江戸時代の町割りでは、久屋町は北の外堀通り1丁目から広小路に面する8丁目まで8ブロックありましたが、度重なる町名変更や道路建設のためなくなってしまいました。現在、南端の8丁目6番地・名古屋中央教会のみ一軒が表示住居として現存しています。

「久屋町」唯一の住居表示・名古屋中央教会
「久屋町」唯一の住居表示・名古屋中央教会(左)
中央教会から開発工事中の久屋大通公園を望む。緑の大樹がなくなり寂しくなりました。