<第99回> 江戸時代の旅行記

<第99回>
12月19日(土)
18:00より
忘年会:余興・平安桜

テーマ:「江戸時代の旅行記」

石田泰弘

講師: 石田泰弘氏(愛西市教委 学芸員)

いくつかの古文書から信長生誕地(勝幡城)を特定されたすごい学芸員さんです。今回は江戸期の旅日記を読み解いて「お伊勢さん 津島を参らにゃ片参り」の通説を確かなものに、江戸期のるるぶは:東国~名古屋~津島~伊勢国!

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江戸期の旅、七里の渡しは不人気ルート? 愛西の学芸員が調査

宮宿(名古屋市熱田区)と桑名宿(三重県桑名市)を船で結んだ「七里の渡し」。江戸後期の旅行記「東海道中膝栗毛」で弥次(やじ)さん、喜多さんも通った東海道の名所だ。ところが当時の記録を読み解くと、お伊勢参りなどに向かう旅人たちは、この海路をあまり使っていなかったらしい。背景には、もっと尾張の名所を巡ってみたいとの旅心があったようで?。

この実態を明らかにしたのは、織田信長の勝幡城(愛知県愛西市、稲沢市)生誕説を広めた愛西市教委の学芸員、石田泰弘さん(56)。五年ほど前から全国各地に足を運び、宮宿や桑名宿を通った記載がある江戸期の旅行記計六百点を丹念に調べた。

その結果、東方からやってきた人たちが道中、尾張国と伊勢国を行き来する際、七里の渡しを使った記載があったのはわずか五十五点。最多は、同県清須市付近から甚目寺(同県あま市)を経て同県津島市に至る津島街道で、実に三百九十五点もあった。岩塚宿(名古屋市中村区)などを通り佐屋宿(愛西市)に着く佐屋路も百五点と、海路より多かった。

なぜ、多くの旅人たちは、数時間で伊勢湾を横断できる近道ではなく、遠回りとなってしまう津島街道を選んだのか。まずは海難事故の回避が考えられるが、石田さんは「それだけではない」と指摘する。

石田さんによると、当時、「津島を参らにゃ片参り」と言われ、伊勢神宮と天王信仰の総本社である津島神社を一緒に参る旅が推奨されていた。佐屋路を通った旅人も埋田(うめだ)(津島市埋田町)で分かれ、津島へ行くことができるため、多くが足を延ばし、参拝したようだ。

さらに、旅行記からは旅人たちが有数の「商都」だった名古屋にもこぞって訪れていた様子がうかがえる。

ある旅行記には「一泊して見物したい城下」と紹介され、お伊勢参りの帰りに呉服屋などで買い物を楽しんだ記述も。名古屋城も人気スポットで、「城案内 五文」「城門から入り金のしゃちほこを近くで見る」などと書かれている。

石田さんは「当時は一生に一度の旅。近道はせず、後悔しないよういろんな土地を見て回ろうとする気持ちが強かったのでは」と推測。「今も昔も旅の楽しみ方は同じなのではないでしょうか」と話している。

研究成果は書籍「尾張藩社会の総合研究 第七篇」(清文堂出版)に掲載されている。
(中日新聞掲載より)

講演ののちは平安桜とともに、料亭蔦茂の冬の会席料理で楽しい忘年会で交流しましょう。

会場: 料亭蔦茂