北見昌朗の講演

「名古屋の歴史発見!!」~旧町名の蒲焼町は今のどこでしょう?~

2013年11月12日(火) 愛知学院大学にて第92回[モーニングセミナー]の講師を務めました。

愛知学院大学での講演資料
モーニングセミナーのようすはこちら
画像をクリックすると、資料をご覧いただけます。

 






「幕末を生き抜いた名古屋商人に学ぶ企業経営のヒント」

大塚商会 実践ソリューションフェア2012で講師で講師を務めました。

<大塚商会 実践ソリューションフェア 2012 in 中部>

特別セミナー「幕末を生き抜いた名古屋商人に学ぶ企業経営のヒント 」
日時:2月24日(金)  15:30~17:00 入場無料
会場:ヒルトン名古屋(愛知県名古屋市中区栄1-3-3)

幕末の尾張藩は破産状態。物価高騰、大地震、コレラ、洪水、戦争。世直しを求める民衆は「ええじゃないか」と踊り狂う。動乱のなかで、戦費調達を強いられながら、知恵を絞り、本業を守りながら、しぶとく、したたかに生きる名古屋商人に学ぶ、企業経営のヒントについてお話いただきます。

大塚商会で行われた北見昌朗の講演です。90分間です。お聴きくだされば光栄です。


大塚商会実践ソリューションフェア2012

大塚商会様のセミナー案内が、名古屋市の地下鉄で広告として出ていました。
(平成24年1月13日に栄駅で撮影)

地下鉄栄駅

地下鉄丸の内駅

地下鉄小枠広告

名鉄中吊り広告

地下鉄ユニットポスター
地下鉄ユニットポスター(pdfファイル)
日経新聞広告

日本経済新聞広告(pdfファイル)


中部経済同友会で講演を行いました

【24年4月度産業懇談会(火G)模様】

テーマ:「古地図を手に、明治の名古屋商人の活躍を語る-復活しよう 名古屋の旧町名-」

中部経済同友会での講演

日時:平成24年4月10日(火) 12時00分~14時00分
場所:名古屋観光ホテル18階 伊吹の間
参加者:28名

スピーカー:㈱料亭蔦茂 取締役社長 深田正雄氏のご紹介
      ㈱北見賃金研究所 所長 北見 昌朗 氏

1.マップの研究
私は、新聞社で12年間記者を勤め、その後中小企業に賃金を昇級することを提案する仕事をしているが、最近は本業の影が薄くなってきている。本日、お手元に23冊目の本「愛知千年企業(江戸時代編)」を配布している。色々と本を書いてきて思ったのが、一番疎いのが名古屋の歴史であるということであった。城山三郎氏の中京財界史の本を読んでも、恥ずかしいくらいわからなかった。地元に生まれ育ったので、勉強しないともったいないと思った。そして、本を書くのにどうしても避けて通れなかったのが、マップの研究であった。

2.地形の地図(浸水マップ)
国土地理院の許諾を得て、色別に海抜を表す地図を作成した。清州城は海抜5メートルで、名古屋城の台地は15メートルある。慶長大地震が関ヶ原の合戦の5年後に起こり、津波の被害を受けた。その恐怖心から名古屋に移ろうということとなった。名古屋城は、南側に沼、そして堀川がまさに堀で西から攻めにくい。なぜ碁盤割になっているかというと、攻められることがないという自信のあらわれであり、100メートル道路以外は、家康公の都市計画のままとなっている。

織田信長は桶狭間の合戦において、清州城を出て熱田神宮に参拝し桶狭間まで海岸線を辿ったといわれている。問題は海岸線がどこかわからなかった。このマップには伊勢湾台風の浸水状況も記している。名古屋駅はもともと沼であり、ほんの一歩手前まで水が来ている。伊勢湾台風の浸水エリアが昔の海岸線と考えられる。ここを辿ると信長が辿った道となる。歴史の研究をするには、どうしても地図が必要となる。

3.名古屋城下の地図(がんばれ名古屋商人)
名古屋城下の一番の中心は「本町」にある。名古屋と熱田を結ぶメインストリートで、参勤交代のルートでもあった。本町通りの両側には名古屋を代表する商家が軒を並べていた。商人の夢は、本町通りに店を構えることであった。

「茶屋町」は豪商茶屋中島氏が居宅を構えていたので、その屋号にちなんで付けられた。茶屋氏に劣らず繁栄したのが、松阪屋の前身、いとう呉服店を開いた伊藤次郎左衛門家である。

桜通りの一本手前にあるのが「伝馬町」。ここは交通の要地であり問屋場が置かれていた。江戸と名古屋との書状や荷物を扱う飛脚は、江戸まで7日間で荷物を届けた。また、本町通りと伝馬町筋との交差地点には、高札が建っていて札の辻と呼ばれた。

さらに、「がんばれ名古屋商人 明治時代版」を作った。川の位置を載せ、屋号を記載している。地名の由来、さらには豊田佐吉・喜一郎をはじめ、この時代に活躍した企業家たちの足跡を辿ることができる。

4.町名を復活しよう
歴史の本を読むと、全部町名が出てくる。この地図で注意深く見ていかないとわからない。郵便配達のために明治時代に町名を消し合理化した。昔の町名は通りでわかれており、1つのブロックがいくつもの町にわかれていたためである。名古屋人の多くが名古屋の歴史に疎い。学校で教育されていない。大きな本屋に行っても、名古屋の歴史の本がない。知ろうとしても知るよしもない。知ろうとしたら、その一番のネックとなるのが町名である。町名を復活させることが、歴史の再認識、歴史復活につながると考える。