北見昌朗の講演「古地図を手に名古屋の歴史を語る」
「歴史を残そうとする人」が歴史を残す
中学生の時には歴史クラブに入り、近くにあった朝日遺跡の貝塚発掘に関わっていた。
佐賀県にある吉野ヶ里遺跡に匹敵するスケールを持つ弥生時代の巨大遺跡だが、一部は高速道インターチェンジになってしまった。全体を残していれば、古代を象徴するテーマパークになっていただろう。
吉野ヶ里は工業団地にする予定だったが、体を張って計画を阻止した中学教師がいて、遺跡公園になった。「歴史」は、残そうとする人がいなければ残らない。
商業の発展を重視した家康公の町づくり
名古屋の歴史は、やはり名古屋城に始まる。徳川家康公が自分の生涯の最高傑作として造った鉄壁の城塞である。駿府城、江戸城と造り、最後の作品が名古屋城。「落とせるものなら落とせ」という、強烈な自信を持って造った。そこから名古屋が始まった。
宝暦年間(江戸中期)に作られた地図を見ると分かる。町づくりで家康公が行ったのは、道を碁盤割りにすることだった。戦国時代の常識とは反することだった。町は碁盤の目で区切られ、地図の家ごとに名前が記されているのが武家地、名前の記載がない白地の部分に町衆が住んでいた。
当時の地図は、攻め込まれたらどう守るかを考え議論する軍事資料で、城はぼかして書かれていた。白地は今の本町通りから広小路通りの辺りで、名古屋にとってはセンターに当たるところ。町民を周辺の下町でなく中央に置いたのは、戦を前提とせず、商業の発展を重視した家康公の偉大な発想である。町衆を、武家衆がぐるりと囲み守る構図になっている。新しい時代を見据えた都市計画のもとで造られた町だと分かる。
この400年前の都市計画のおかげで、今のわれわれは恩恵を受けている。木曽の森林資源を家康公が尾張藩に与えたことも、将来の名古屋の発展に寄与した。材木を利用した産業が芽生える。材木町、木挽町といった町もできた。木材の製造業から進化し、明治時代に名古屋で誕生した日本車両製造は、木製の馬車製造から新幹線車両をつくるまでになっている。
歴史に年号と場所は必須
明治時代の地図を見ても、基本的な町割りは変わっていない。道路が広くなっているが、拡幅しただけ。町にとって歴史はつながっている。
町名をみていくと面白い。名前で町の成り立ちがすぐに分かる。昭和35年の住宅地図を見ると、清須越しで移ってきた織田信長公時代の清洲の町名が残っている。長者町、京町、材木町、七間町、大津町、船入町などがあった。
しかし昭和40年にこれらの町名が消された。大きな損害だと思っている。戦後20年たち、近代化に向かうなかで、古いものを無くそうとしたのかもしれない。当時郵便番号がなく、入り組んだ町名は郵便の集配などで煩雑だったかもしれない。だが、歴史は年号と場所は必須で、我が国の場合、歴史的な出来事は元号で記録されている。場所も名称・呼び方が変わると語れなくなる。今は郵便番号もあり住所が認識しやすくなっている。
長者町という名称を復活させたいと思っているがこの前、ちょっとした実験をしてみた。長者町は錦2丁目になっているが、住所を錦2丁目とせずに長者町として手紙を出した。ちゃんと届いた。城下町・名古屋を取り戻すには旧町名を復活するべきだが、住居表示法があり、その手続きが煩雑で旧町名に変えたくても、実質的に不可能になっているのが残念だ。
生きた歴史が分かる古地図
古地図を見ていると生きた歴史が分かってくる。豊田佐吉翁の創業地は朝日町(名古屋市中区)。今では「錦3丁目6番地」で、テレビ塔の西横になる。晩年に栄生(西区)に移った。盟友、事業の協力者なども朝日町近くに拠点があった。豊田翁が友人と飲んでいたところが七間町(錦三)の料亭花月。ここで議論を重ね織機の開発に挑戦した。
大正時代の地図を見ると、明治時代と違うのは軍事施設が大きく表れてくる。熱田駅の周辺には砲兵工廠が並び、名古屋城には軍隊が駐屯し練兵場が作られ、それまであった城の「馬出」が潰された。
花いっぱいの名古屋城に
名古屋城の木造化が進められている。城には皆さん行くが、本当の城の良さにはなかなか気づいてくれない。御深井丸(おふけまる)や二の丸庭園を訪れる人は少ない。
名古屋市が作っている観光ルートも、東門から入り本丸御殿、天守閣まで行くと「帰る」となっている。残念ながら庭園などに足を向ける観光客は皆無に近い。建物は一回見れば十分かもしれないが、庭や樹木は見飽きることはない。
今の名古屋城を訪れても、記念撮影するスポットがない。花がいっぱいの城になり、撮影スポットがたくさんあれば、訪れる楽しみが増えると思う。名城公園も、公園を通る東西の道路を桜並木にして、通り抜けできるようにすれば人が集まる。天守閣を背景に記念撮影の場所にもなる。城内に座る場所を設け、食べ物の店もさらに充実させ市民が城で楽しめるようにするべきだろう。
名古屋らしさは城下町にあり
これからの名古屋は、城下町を取り戻すことが大切になる。名古屋城に人が集まるようにする。そして「城下町・名古屋」の背骨である本町、栄にも人が集まれるようにしてもらいたい。
名古屋らしさは城下町にある。その歴史を学校でも郷土史を学ぶようにすれば、町の良さ、面白さがわかるようになり楽しい名古屋になる。
ただ、今の木造化計画には危惧している。予定している入場者360万人は、本丸建物だけではずっとは続かない。これを元にした収支計画は危ない。15年で完済できるだけの計画を立て直すべきと、思っている。