料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第95回(2019.2.19)

自由民権運動と秋琴楼事件

長谷川昇先生:日本史授業
長谷川昇先生:日本史授業

昭和41年4月、東海高校3年の深田正雄君はD組長谷川昇教諭担任のクラスに入りました。当時、少年サンデーの人気漫画『オバケのQ太郎』とそっくりで、あだ名は“お化け”。早稲田大学卒の文学士で日本史の先生、映画が大好き! 学校をサボって映画館に入りびたっていた友人が見つかり、“お化け”のお咎めと思ったら…。
「T君、不登校で映画館に入りびたりか……高校で下らん授業聞くよりよっぽどましだ! だが、事前に休みを報告すること(卒業のため出席扱いすると思われます)、そして面白い映画を観たら感想を先生に聞かせてくれ(???)。諸君、活動写真はいいぞ!! 俺も学生時代は年間200本くらいは観たぞ」
と、豪語する物分かりのよい先生。日本史の授業は、ご研究テーマの名古屋地区の自由民権運動とヤクザのお話しばかりで感動の連続……。正雄君は大の歴史好きとなり、「住吉の語り部」の元凶?となりました。

その“お化け”語る、栄ミナミに関する印象的な2つのエピソードをご紹介しましょう。

板垣退助遭難事件

明治15年(1882年)、大隈重信総理は「立憲改進党」を組織し、国民の政治的関心が大いにたかまるなか国会設立期成同盟への活動において、全国で「自由党」と覇権を争っていました。

対する自由党総理・板垣は勢力の強い三河から愛知自由党・愛国交親社メンバーを核に、東海道遊説の旅を同年3月に開始いたしました。3月27日名古屋に入り、29日午前は大須大光院で、午後は門前町博物館で決起集会、イベントは「撃剣興行」のチャンバラショーで人集め。各地で興行して4月6日には桜花爛漫の岐阜・金華山麓で大演説会。旅館への帰途、待ち伏せていた壮漢に襲われ胸と手にかなりの傷を負いました。

その時、流血の板垣総理が刺客を睨みつけ「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ有名な「板垣総理岐阜遭難」の一幕…そして、同行の内藤魯一が堀川沿い(現栄1丁目)愛知県病院院長・後藤新平の来診を仰いで一命をとりとめたとのお話し!

長谷川先生曰く「治療で板垣は元気になったが、代わりに自由党の民権運動は死んだ!!」生徒は爆笑で大喜びの講義でした。

秋琴楼事件

明治の広小路
明治の広小路 西より東を望む:秋琴楼(右下屋根)、山田旅館(右中央)、
松坂屋(右奥)、朝日神社(左下)

もう一つは「秋琴楼事件」、詳しくは北見さんの『愛知千年企業〈明治時代編第1部 明治前期/1883(明治16年)〉』から引用転載させていただきます。

立憲改進党の懇談会に自由党が殴り込み!秋琴楼事件栄に明治屋があるが、その場所には明治時代に「秋琴楼」という旅館があった。当時の名古屋を代表する一流旅館で、伊藤博文、板垣退助たちは、来名した折にはこの旅館を常宿としていた。そこが自由民権運動の事件現場になったことがあった。板垣退助が岐阜で襲われた翌年の明治16年(1883)、名古屋でも政党の衝突により事件が起きた。自由党と立憲改進党が秋琴楼を舞台として抗争した「秋琴楼事件」である。

愛知県で勢力をもつ自由党に対し、立憲改進党は、3月、末広座において大演説会を開催し、党勢の拡大を図ろうとした。東京から来た立憲改進党の弁士は、尾崎行雄らだった。末広座とは、若宮八幡宮の敷地内にあった芝居小屋だが、足の踏み場もないほどの超満員だった。

だが、会場内では自由党の内藤魯一が指揮者となって、演説会を中止させようと手ぐすねひいて待ちかまえていた。尾崎行雄が舞台に上がり、自由党を弾劾する演説を始めた。内藤魯一が合図をすると、自由党員が舞台にかけあがった。会場は大混乱となり、演説会は中止となった。翌日、秘密裡に立憲改進党の党員だけが集まり、旅館・秋琴楼で有志懇談会を開くことにした。これを知った自由党員は夜、秋琴楼になだれ込み、汚物を詰めた酒樽を、会場の大広間に投げつけた。名旅館の掃除の行きとどいた広間は、異様な臭気を放ち汚物は散らばった。

長谷川先生が語るに「酒樽に木桶で、糞瓶(クソガメ)から糞尿を汲んだ! 住吉の各町家には井戸と糞瓶が設備され、特に下肥として近隣の農家に配送する仕組みが素晴らしいゴミゼロ環境循環社会を形成していた」。幕末から明治に至る、政治問題から汲み取り・生活文化史まで興味深くお話しされていました。一般的な暗記もの歴史には触れず、ユニークな切り口で生徒の向学心を高揚させた名伯楽ともいえます。

明治10年代の愛知自由党の組織率は非常に高く、尾張各郡では50%を超える地域も多かったようです。また、演説会などの会合には新政府となり廃刀令後、失業した剣術の師を中心に大相撲をまねて「撃剣興行」という武術ショーで集客。その後、剣道が存続するキッカケとなったともいわれています。

自由党といえば弁士・川上音二郎をウィキペディアより紹介させていただきます。

その頃、川上音二郎は江戸増上寺近隣で福澤諭吉と出会い、慶應義塾の学僕(雑用を手伝いながら勉強する生徒)・書生として慶應義塾に学び一時は警視庁巡査となる。しかし長続きせず、反政府の自由党の壮士となった。1883年(明治16年)には立憲帝政党員となる。また、旧福岡藩士を中心にした玄洋社の結成に参加。

1883年頃から「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1885年に講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助(後の二代目曽呂利新左衛門)に入門、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)と名乗った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。

『オッペケペー節』のネタとして、板垣・秋琴楼事件は格好のテーマで、撃剣に代わる余興となったようです。音二郎の死後、妻・川上貞奴が諭吉の養子・福沢桃介と二葉館を中心に名古屋財界で活躍したご縁がつながってきます。

実は、正雄の祖父・深田良矩は桃介一党の新会社設立新株引受の仕事に携わり、販売促進の接待場として大正2年に「蔦茂旅館」を購入したのが家業の始まりです。

その後、秋琴楼は旅館千秋楼と店名を変えて、河文の番頭・杉浦さんが経営しておりましたが火事で焼失しました。大正14年に杉浦ファミリーは八勝館の支配人として迎えられ、現在は3代目杉浦典男氏に至っています。八勝館は八事地区の開発にともない、名古屋の材木商だった柴田孫助が、明治初期に八事に別荘を建てたことに始まります。

南呉服町と広小路角の跡地は昭和13年に明治屋ビルが建設され、戦後、曳家移転工法で東に移動したレトロな建物ですが、2014年5月に閉店しました。現在、所有者のダイテックグループ会社は隣接する旧丸善名古屋ビル(現在コインパーキング)と合わせた敷地面積約3千平方メートルを使い、商業とマンションの複合施設を建設する構想を打ち出し、早ければ2015年にも着工するはずでしたが、明治屋ビルのテナントとの退去調整が難航しているようです。丸栄の再開発も遅々として進まず、広小路本通一帯のにぎわいづくりは暗雲が立ち込めて開発の遅れが気になります。

また、明治42年の地図をみると西隣に「山田旅館」がありましたが、その後大正2年に焼失してしまいました。息子の山田光成氏(明治40年生まれ、自宅はラシック南あたり)が慶応高等部卒業後、父の残した他の土地を売り「山田モト旅館」として23歳の時に再オープン、実家の経営再建しております。

山田光成氏は戦時中に下呂温泉で旅館を取得、誘客のために後払い月賦の仕組みをスタートして、クレジットビジネスの嚆矢といえます。1948年(昭和23年)41歳の時に、資本金40万円で、わが国初の割賦販売会社「日本百貨サービス株式会社(日本信販)」を設立し、現在は三菱UFJニコスとなっています。そして、1961年三和銀行と折半出資で「日本クレジットビューロー(JCB)」を設立されました。

また、白壁の料亭・桜明荘の維持運営に尽力され、岐阜美濃加茂市正眼寺のスポンサーとしても地域に貢献されました。私が米国より帰国した昭和56年頃、ホテルオークラで開発担当をしているときに、祖父のご縁もあり本郷の日本信販本社にご挨拶に伺いました。お元気な山田翁はボクシング協会への思い入れを語られた後、「深田君、今世界一のリゾートといわれるハワイのカハラ・ヒルトンホテルを取得したいので、君の人脈で調査してくれ」と依頼されました。残念ながら当時はヒルトンとの契約ががんじがらめで買収が難しい旨報告しました。晩年まで、宿屋の親父としての心意気を感じた次第です。山田翁は、城山三郎『風雲に乗る』のモデルとして有名です。享年79歳。

参考文献:『博徒と自由民権――名古屋事件始末記』長谷川昇著:中公新書、1977年
日本の歴史学者。大正11年横浜市生まれ、早稲田大学文学部卒業、東海高校教諭を経て東海学園女子短期大学教授を経て、名誉教授。専攻は近代日本史
松岡正剛は『博徒と自由民権』を「名古屋事件を詳細に再現した一書。目を洗われた」と評しています。

『愛知千年企業』〈明治時代編第1部 明治前期/1883(明治16年)〉 北見昌朗著

北見氏制作の地図より
北見氏制作の地図より
明治42年広小路3~5丁目南呉服町を挟んで西・旅館千秋楼(秋琴楼)、東・山田旅館
現在の明治屋ビル全景(2019.2・11撮影)
現在の明治屋ビル全景(2019.2.11撮影)