料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第89回(2018.8.23)

南鍛治屋町は風光明媚なリゾート

美濃の国・関の刀鍛冶が清州に住んでいた関鍛冶町が清須越しで名古屋の町に移転、碁盤割の外、広小路より南は「南鍛治屋町」と江戸時代から呼ばれていました。

現在は同町の東半分は100m道路・久屋大通公園となっています。西は三越、ラシック、松坂屋、パルコと大型店舗が連なっています。

南久屋公園・南鍛治屋町東
南久屋公園・南鍛治屋町東、南に高低差5戦前の成田山萬福院跡地あたりから南を望む

広小路通り南側、現在は南鍛治屋町1~4丁目までが栄3丁目、若宮通を挟んで4~5丁目が大須4丁目となっています。

標高差のある小袖川沿いの町で、三越北東からフラリエ西まで南に約5mの落差があります。関鍛治町の泉から流れる小袖川は精進川に注いでいたようです。

江戸末期の地図を見ますと、中級武士の家並みの中に萬福院が北側に聳え、東の川沿い、南の崖とさぞ眺めの良い景勝の寺であったようです。

江戸末期の南鍛治屋町武家屋敷
江戸末期の南鍛治屋町武家屋敷

萬福院はその昔、清須の御園町に重秀法師により建立され潮音山萬福院と称し、慶長遷府で同南鍛治屋町1丁目に移転。昭和13年、本山の新勝寺より不動明王の分身を勧請し、本尊とされ真言宗成田山に改められています。

昭和20年の空襲による焼失後、昭和30年に再建されました。平成14年にラシック建設に伴い、現在地である栄5丁目に移転しております。節分祭には毎年2~3千人が訪れ、交通安全のご祈祷でも地域の人々に親しまれております。

通りを挟んだ西側にはお武家「牧登」宅があります。牧家は戦国の斯波氏守護代で、1548年小林城を築いた牧長清を祖として、現在も末裔の牧清氏が小林城の跡、清浄寺の檀家総代をお勤めになっています。

牧家は後に尾張藩に仕え馬廻組頭や御書院番になり、文芸の功績からか加増されて150石を与えられた牧墨僊(まきぼくせん)は葛飾北斎の門人。姓は牧、名は信盈(のぶみつ)、お城務めだけでなく粋人で、狂歌絵本や俳諧の摺物など多岐な芸術方面と関わりを持つ仕事を中心に活躍しておりました。

文化9年(1812年)北斎が関西へ行く途中で名古屋牧宅に滞在したとき北斎の門人となり、肉筆画、絵手本、絵本及び細判摺物、版本の挿絵制作をしていたようです。葛飾北斎は半年余り逗留して、下町を散策し大須の「だるま絵」や富嶽三十六景「尾州不二見原」を描いたといわれています。

尾州不二見原
尾州不二見原

尾州不二見原
富士見原を描いたもので、遊郭や武家の別宅が存在する名勝地として知られていたそうです。北斎が幾何学的構図を好んで使ったことを説明する時に必ず登場する作品と言えます。丸い桶を通して見える三角の富士。「桶屋の富士」とも呼ばれる。木工の盛んな南鍛治屋町5丁目から北を望んだと思われます。仮想の不二は尾張富士ではないかといわれております。

四代目瀧兵右衛門
四代目瀧兵右衛門

明治31年に(株)タキヒヨーの祖、四代目瀧兵右衛門は山田才吉開発後に東陽町通り北・南鍛治屋町2丁目20番地に敷地2000余有坪を買い、別宅の新築にとりかかりました。

屋根瓦の一部を徳川家屋敷から譲り受け使用したり、ずいぶん趣向を凝らした建物で、普請を始めてから3年がかりで完成したと伝えられています。

四代目はこのころから事業の実権を五代目信四郎に委ね、この贅をつくした別宅は、財界人との交流の場・サロンとして、店の幹部の家族慰安会場としても活用されたようです。東に昇る月が池に移り、川あり、滝あり鶴まで飼われていた、風光明媚な都心リゾートで、その後5000坪に拡張されたようです。

四代目は明治15年(1882)に名古屋銀行(東海銀行の前身の一つ。本店は中区丸の内2丁目3にあり、現在は八木兵本社になっている)を設立して初代頭取に就任。人材育成に熱心な五代目信四郎は瀧家発祥の丹羽郡東野村古知野(現・江南市)に滝実業学校(後の滝学園)を開校して、教育の分野でも貢献されております。

そして、四代目兵右衛門のひ孫が富夫氏(瀧学園理事長)・茂夫氏(タキヒヨー会長)で現社長は、富夫の子にあたる一夫氏となります。

大正15年の南鍛治屋町、1丁目萬福院、2丁目滝邸
大正15年の南鍛治屋町、1丁目萬福院、2丁目滝邸