料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第42回(2014.9.26)

伝統文化豊かな住吉町三丁目・その二

住吉3丁目の伝統芸能といえば西川鯉次郎さん。大正10年生まれで小生の叔父、深田次郎と白川小学校で同級生でした。鯉三郎の右腕として戦後の混乱の中で西川流舞踊の伝承と普及をめざし、昭和22年より日舞の公演・鯉水会を毎年開催されていました。
奥様の「あやめ」さんはご主人亡き後、「鯉水会」を受け継いで主宰。昭和50年、美空ひばり御園座公演に準主役で出演するなど、舞踊を超えて活躍。
鯉次郎との間に生まれた三子はいずれも西川流名取。 長男・鯉之亟は舞踊家、俳優としても活躍。三男ひろしは鳴物住田長十郎 として活躍。二男片山長次郎は家業の天ぷら店「あやめ」を継いでいる。(HPより抜粋)
お稽古場には戦災で焼け残った土蔵もあり、入り口は天婦良「あやめ」の粋な造作とお稽古場への竹林玄関が併設されていました。
お店は現在、中区橘1丁目に移転されましたが、チョット濃い目のスモークがかかったような天汁が懐かしい味です。

アロハテーブルの看板後に、西川あやめ師匠の稽古場の竹囲いが残る
写真:1 アロハテーブルの看板後に、西川あやめ師匠の稽古場の竹囲いが残る

今月5日昼、中日劇場で開催されていた「名古屋をどり」会場でお元気な「あやめ」さんに久しぶりにご挨拶。86歳とは感じられないお姿で、「蔦茂のボン、大きくなったね・・・??」とおしゃってました。
現在はコインパーキングとなっていますが、竹囲いの塀が情緒を感じさせます。(写真1)

西隣10番地は創業明治42年の森川オーナー大同別珍織物(株)倉庫は、ゼットン稲本健一さんの「ODEON」(現在・アロハテーブル)という居酒屋に変身、貨物用エレベータしかない5-6階には「神谷デザイン事務所」の看板が最近までありました。カリスマ店舗デザイナー神谷利徳さんとの共同事業発祥の地といえます。

角の針亀袋物店は現在、(株)水野鞄店の駐車場となり、栄ミナミ音楽祭のライブ会場としても活用させていただいています。同社は創業明治23年の老舗で、現在の本社ビルは昭和41年に完成し、大同別珍ビルさんと同様に一階にトラックで搬入できる高い天井とデッカイ貨物エレベータが特徴です。前会長・水野喬樹氏は名古屋鞄協会代表、住吉商店街会長、名古屋ロータリークラブ会長などを歴任され、今もビル5階にお元気にお住まいです。

周辺には花柳流、お茶・松尾流、華道・松月堂、三味線・余合師匠などの稽古場もあり、着物姿のご婦人が針亀さんのお洒落な和装小物や簪・扇、鼈甲、帯〆などをご覧になっていたようです。
北の八木佐(株)は業務用陳列品卸で、現在の「シマムラ」タイプなお店。
中島屋酒店は業務用の酒卸店として、周辺の飲食店配送用トラックの激しい出入りが思い出されます。同店はその後、手狭になり大須1丁目に移転されました。

ブロック南の道幅が狭く、舗道がないのにお気づきでしょうか? その理由は角の一八うどん、文具の早川商店、酒屋・松屋、スズモリの4軒と南に続く竹市さんの長屋が奇跡的に戦災から焼け残り、区画整理が十分にできなかったことによるようです。

うどん一八、早川商店:戦災を奇跡的に免れた一角
写真:2 うどん一八、早川商店:戦災を奇跡的に免れた一角

きしめん「一八本店」は、現当主である松本さんの祖父が兄より明治時代に店を引き継いだものの、創業年は明確でないようです。飲食業では栄3丁目で最も歴史ある店舗であり、同じ土地で戦前から営業しているのは蔦茂と2店のみとなりました。
なぜ一八か? 「たまり1出汁8で調理するきしめん汁」とのこととか。真偽のほどはわかりません。
雑貨の早川さんは大正時代の建物が現存し、昨年5月に名古屋市登録地域建造物資産第99号に認定されました。トンボ鉛筆の大きなブリキ看板の地元文具屋さんとして頑張っていましたが、この9月よりレトロの建具をいかした焼鳥屋「わ家」となりました。先代は渓流釣りマニアで、正雄君も形見である鮎の竹竿を令息よりいただいております。この竹竿を将来、つたも店内に展示したく思っています。(写真2)

西ブロックの八百秀さんはコンビニ「サークルK」に転向。かつては子供たちの集まる駄菓子屋「ひもや? とか、三丁目? とか」呼ばれた大阪屋さん、10円のお好み焼きから豚肉を見つけて大喜びの児童のパラダイスでした。

人形の好洋・花柳流の稽古場 明治2年築の土蔵を活用
写真:3 人形の好洋・花柳流の稽古場 明治2年築の土蔵を活用

「人形の好洋」さんの初代・清村金豊(きんぽう)は、幼少の頃から浅草本所で人形師の修行を積んでおり、明治40年に独立。そして大正初期、その技を名古屋に伝承するために来名、人形師として大池町に居を構え、二代目好洋氏がブランド展開しました。
末広町のお店は戦後の区画整理で接収、住吉3丁目に移転されました。当主奥様の実家が管理されていた明治2年築の土蔵がショウルームとして現在も使用されています。
三代目の好英氏は栄小学校の2年後輩で、節句人形工芸士として伝統技術を承継され、人形組合の重鎮として活躍されています。清村家とご親戚竹市家の花柳美洲さんの稽古場とがあり、近所の旦那衆が美人の美洲師匠にあこがれて練習に励んでいたようです。(写真3)

おむかえの割烹若鈴さん後には茶道・松尾流尾関宗般師匠がお住まいになり、時折、町家造りの風情にぴったりの茶会が開かれています。

住吉町3丁目地図(昭和35年頃の住宅図、北見氏より)
住吉町3丁目地図(昭和35年頃の住宅図、北見氏より)