料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第37回(2014.4.20)

大久保見町は鉄砲町3丁目と名称変更

明治5年、中須賀、大久保見町の二つは、鉄砲町と合併して中須賀町は鉄砲町二丁目、大久保見町は三丁目となりました。鉄砲師が住んでいたので鉄砲町、清州の須賀口から移り中須賀町、おおくぼみ(大窪み)とは地形が窪んでおり、本町に架かる石橋の下に紫川の流れありました。

若宮八幡社に唯一現存する福禄寿車は延宝4年(1676)に大久保見町が建造した山車。神社東に同町の所有する蔵で、戦災で焼失を免れました。八幡社境内に山車蔵があったため焼け残った福禄寿車と河水車(住吉町建造)も、昭和22年に出来町(名古屋市東区)に売却され、ついに若宮から山車が消える事態となってしまいました.
しかし、その2年後の昭和24年に若宮八幡社が復興されるとともに、福禄寿車は再び当地に返車され、若宮祭の山車はついに1輛のみとなってしまいました.

返還された福禄寿車は若宮八幡社の所有となり、祭礼時に氏子8町内(末広町・裏門前町・南大津通り・矢場町・住吉町・鉄砲町・池田瓦町・門前町)が順に当番町をつとめることで運営されます。
今年も5月15日~16日祭礼で往時の大久保見町の繁栄を彷彿させる渡行と「からくり」もお楽しみください。

旦那衆の面影が残る鉄砲町3丁目のお店を、昭和35年版北見地図から紹介してまいりましょう。

繊維雑貨、羅紗、袋物の百貨店問屋が軒を並べ西ブロックはボタン(株)脇田商事、糸商(株)川口、敷物の伏屋(息子は正雄君と小学校同年の秀才)の大店も今は脇田さんが現存するのみで、味噌煮込み屋山本屋本店さんやコメダコーヒーと様変わりです。
南の大正15年創業の(株)横山商店はリオグループとして平和町に移転、婦人服チェーン、ショッピングセンター開発、ゴルフ場と多角経営されています。
小島専蔵商店は現金問屋として発展、「センゾー」の通称、素人歓迎販売で近郊より多くの会員制買物客で週末は大賑わいです。名古屋グリーンカントリークラブを経営され、戦後発展した代表的な全国レベルの問屋として東京で市場を広げられているようです。
創業1781年小間物商からスタートした(株)森本本店の当主は、明治時代より名古屋財界の重鎮でもあり、戦前は最初のカタログ通信販売を国内、満州各地で展開されたと聞いております。10年ほど前に一宮の大きな配送センターに移られました。
青山紐店は鉄砲町2丁目の青山リボンさんと同系列で現存。創業明治35年の服部旗店さんは裏手の西角に移転されましたが、「日の丸」国旗の元祖のお店と祖父が申しておりました。

(株)沢井ネクタイ店は澤井万となり、錦2丁目でメンズ中心の繊維問屋としてご兄弟で経営。御嬢さんのゆき子ちゃんは正雄君の小学校の同級生。一緒にアメリカ村探検や、3階のご自宅で遊んだ思い出があります。何故か隣のビルと屋上でつながっており、立体的な「かくれんぼ」が楽しかったようです。

南角の(株)沢重さんは、おむかえの東海スポーツさんがその後、買収されました。この角地「大窪み」は、かっての紫川流域で地形が低く、現在でも大雨が降ると下水処理が追いつかずいつも洪水となっています。

尾張藩士高力種信の尾張名陽図会から、紫川の石橋を紹介させていただきます。(写真:1)

尾張名陽図会より
写真:1 尾張名陽図会 巻之4;著者:高力種信 見開き6枚目
「紫川大久保町の石橋」末広町に架かる南北橋。花屋町筋を
西に流れる紫川は明治となり白川に改名されたようです。
尾張名陽図会より
写真:2 白川通り・花屋町筋の現在道路看板 東西が白川通り
西奥には白川公園・科学館の緑が鮮やか。伏見にかけて下り高低差1メートル。
かっては紫川流域でしたが、大正初期に埋め立てられ暗渠となっています。
白川公園遺跡の発掘調査は平成19年より約1年、科学館の建て替えに伴い実施。
縄文時代からの多くの遺物・遺構を発見、紫川流域に古代人が生活していました。

大久保見町と末広町の間の筋は、現在は白川通りと名前が変わってしまいましたが、江戸時代は紫川に沿って花屋町筋と呼ばれていました。
細い道の花屋町は花にゆかりのある人々の町で、安永(1772~1781)頃、是心斎一露の創始した華道松月堂古流家元、生花の三省堂、造花店、花卉商人が軒を並べ、南寺町への墓参に町衆が立ち寄る紫川のほとりであったといわれています。
現在の科学館北の筋は、東の住吉通りから伏見通りに向かって1m以上の高低差があります。(写真:2)

現在の東側はかっての面影がなく、ライオンズマンション、日貿ビル、そして、お洒落なグラスシティ栄の3棟となってしまいました。
地図では羅紗、洋品、糸などの問屋街で、南角のKK山本さんは錦2丁目に移転、万勝として現金問屋として繁昌されています。

現社長の山本勝(まさる)さんは2年年下で、色白の西洋人の風貌でもあり、栄小学校であだ名「マーシャル」(中日ドラゴンズの外人選手)と呼ばれていたことが懐かしく思い出されます。
また、白川通り(元花屋町筋)に師匠がお住まいであったのか、松月堂の名前が残っているのがうれしいですね。

 

北見地図(昭和35年版)鉄砲町3丁目

南北・本町通り沿いには大手繊維問屋が立ち並ぶ。 末広町との東西・花屋町筋は、華道の師匠やら粋な魚屋、菓子屋 パン屋、化粧品店、かばん屋などが軒を連ねる。 住吉3丁目31番「白川幼稚園」は浄土宗伝光院の併設幼児学校。同園東側には紫式部の石碑があり、紫川の泉が湧き出ておりました。

北見氏制作 昭和35年版より鉄砲町3丁目