料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第35回(2014.2.26)

南伊勢町物語・名古屋のウォールストリート

名古屋の旧町名を復活させる有志の会代表の北見昌朗さん作成の昭和35年版の中区地図復古版完成B1サイズで南北2枚組セットがドーンと蔦茂に送られてまいりました。

とても興味深くどなたでもご希望ございましたら、北見さんのご厚意に甘えて差し上げますので気軽に小生までご連絡ください。

今回は、東京の兜町、大阪の北浜とともに金融街といわれた伊勢町について昭和30年代の昔話をいたしましょう。

江戸時代は広小路より南で下級武家屋敷が両側にあったものの町名はなく、明治4年に至って「南伊勢町」を新設、明治26年末に86番地(現在のスカイル南・路地)に株式取引所が創立され証券会社が軒を並べるようになりました。

正雄君の小学生当時の記憶では、労働争議が続き組合の赤旗ひるがえるレトロな名証取引所ビル、そして、重い擦りガラス扉をあけて地下へいくと洒落た居酒屋ニュートーキョー、そして、片側1車線の車両通行する入江町道路上に跨る立会所建物とガード下のタバコ屋、焼き芋屋、飲み屋屋台の奥にはチョット暗い中小証券店舗が思い出されます。浮浪者が2,3人雨風をしのいで生活していたようです。

名証取立会場の外観(昭和30年代) 入江町筋のガードが懐かしい
名証取立会場の外観(昭和30年代) 入江町筋のガードが懐かしい

昭和35年当時は地場証券業者の登録は36社あり、うち26店舗が伊勢町1階に軒を並べておりました。現在、同一敷地での営業継続は寿・大徳・岡地証券の3店が残り、他は平和ビルに移転した明治から続く老舗木村証券、そして、昭和37年に参入の豊証券の5軒のみが伊勢町で営業する寂しい金融街となってしまいました。また、戦前からの地元リーダー安藤証券は広小路の丸栄デパート向えにて、同一敷地にて隆々と活躍されています。

三蔵通りの交差点、北東角には玉塚証券の相場記入ボードがあり、折からの庶民の証券大衆化ブームで梯子を掛けてチョークで記入する時価相場変動に人だかり、一喜一憂するオジサンオバサンの姿が懐かしく感じられます。玉塚の北にはレストランブギ、分厚いカツサンドや名物ビーフシチューの味を覚えている方も多いのではないでしょうか?

伊勢町取引所ガードから北に並ぶ証券会社、右は日活劇場
伊勢町取引所ガードから北に並ぶ証券会社、右は日活劇場

北見地図で分かるように南伊勢町は路地裏が賑やか、居酒屋と高利貸し?が軒を並べ、名古屋日活劇場周辺には大手の森朴さん経営、食堂「丸庄」ほか大津通りへの東西に2本・南北に1本の路地裏繁華街に証券マン相手の多くの飲食店がありました。

現在は丸八証券ビルは新田さん率いる(株)Jプロジェクト本社となり、取引所ガード北は共産党赤旗から緑の街路樹と変わり美しい公開空地「セントライズ栄」、入江町通り南は名古屋平和ビル、そして、むつみ小路南の金融マンの常連で繁昌した床屋セントラル(親父の佐藤さんは競馬好きで有名)や「やぶそば彦」の跡地には新ビル建設が工事中、角の丸栄ホテル食堂部から国際フードレストランは名古屋証券取引所となり、三蔵通り西・料亭河文さんの林ファミリー所有の土地は伊勢町平和ビルとかわりました。地元証券業を支えた(株)平和不動産が都市型デベロッパーとして地域開発に貢献されています。

平和不動産による新ビル群
平和不動産による新ビル群(上記写真と同一現在地)
栄ミナミの新しいイメージシンボルの街路灯が新設されております。

今の名証取引所の1Fが洋服Zegna(銭屋)とは語呂合わせでマッチングしますが、西隣サンリツビルの出逢いカフェ」ピンクサロン?「栄フラン」は混在する伊勢町らしく困った街の環境浄化への課題です。

ところで創業100周年蔦茂と伊勢町の関わりをお話ししなくてはなりません。海部郡蟹江町須成出身の神田雷蔵は、蟹江銀行重役の父の縁もあり明治31年より名株仲買人として伊勢町在住、後に渋澤栄一、高橋是清との人脈から明治43年政府公債引受で信用を得て、兜町を風靡する仲買人となりました。東京での神田銀行設立の頃、同郷の須成村村長の長男・深田良矩(祖父)は各地の深田家が銀行を設立することもあり、尊敬する雷蔵の片腕として、伊勢町で新株発行と引受業で活躍しておりました。

雷蔵の指導もあり、証券業の円滑な取引のための接待場として、大正2年に八百屋町の料亭蔦茂を取得、後に手狭となり、伊勢町に近い現在地(住吉町2-26)に旅館「丸屋敏」を購入したのが、現在の蔦茂本店スタートとなります。もちろん、昭和2年神田銀行倒産まで、料亭の事業は他人任せであったようです。(住吉の語り部第11回参照)

地図は北見氏制作 昭和35年版より南伊勢町の住宅地図

北見氏制作 昭和35年版より南伊勢町の住宅地図